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柔らかな草の感触が足にまとわりついた。
ずっと宙に浮いていた足が、大地を踏みしめ、身体を支えた。
ミッシェルは、構えていた杖をゆっくりと降ろし、大きく息を吸い込んだ。
澄んだ空気だった。心地よい。
ミッシェルは呼吸を整えながら、珍しそうに左右を見渡した。
右手を見ると、そこにはどこまでも広がる青い海。
そして、足元の草原は、はるか左手にそびえる大山脈まで連なっていた。
ミッシェルは後ろを振り返った。
あたりは一面の草の海だった。
正面から強い風が吹き付けて、ミッシェルの頬をなぶった。
目元をかばうように腕を掲げたミッシェルは、じっと目を凝らした。
草原の先の方で、大地は突然の終わりを迎えていた。
その向こうには、何もなかった。
「越えた……」
抑えた口調で、ミッシェル・ド・ラップ・ヘブンはつぶやいた。
感動と言うより、放心しているような声音だった。
ミッシェルは風に向かって歩いた。
その目でガガーブの裂け目を確認するように。
大地の底まで崖となっているガガーブは、激しい渦を伴った強風を住まわせていた。
近づけば、立っていることすらおぼつかない強風にさらされた。
その裂け目の上空は、鳥すらも渡れない場所と言われているのだ。
ミッシェルはいくらも行かないうちに、風に遮られて進めなくなった。
「ガガーブを、越えたんだ。」
進むことをあきらめて、ミッシェルはもう一度つぶやいた。
徐々に胸の奥から、熱い喜びが湧き上がってきた。
口をきゅっと結んでいるのに、頬が自然とほころんでくる。
「やはりあったんだ。別の世界が。」
ミッシェルは身体を駆け巡る歓喜の思いをじっくりと噛みしめた。


しばらく感動に浸っていたミッシェルは、やがてガガーブに背を向けて歩き始めた。
未知の世界への期待は膨らむ一方だったが、現実の問題もあった。
夜が訪れる前に、安全に過ごせる場所を見つけ出さなくては。
あたりに人影はない。それどころか、けもの道すら見当たらない。
こんな場所に近づくうっかり者はいないということだろう。
「少し楽をしましょうか。」
そうつぶやいて杖を構えたミッシェルだったが、呪文を唱えているうちに怪訝な表情になった。
「…魔法が使えない?」
ミッシェルは杖を握り直すと、短く命じた。
「風よ!」
すると一瞬、ふわりと柔らかな風が沸き起こった。
「弱い魔法なら使えるのか。思った以上に魔法力を消耗しているようだ。しばらくの間、転移魔法は使えないな。」
ミッシェルの表情は険しかった。
だとすれば、ひたすら歩くしかない。どこに人の営みがあるだろうか。
旅慣れた己の勘を研ぎ澄ませて、ミッシェルは草原を進んでいった。


日が落ちる頃、ミッシェルは木立の茂る場所にたどり着いていた。
初めての土地で無用心に地面で眠るのは不安なものだ。
ミッシェルはがっしりした木を探し出してよじ登り、そこで一夜を過ごすことにした。
携帯食料で腹を満たし、ローブにしっかりと包まって太い幹に身体を預けた。
明るいうちは生き物の気配を感じなかったが、暗闇の訪れとともに何者かが下草を揺らす音が聞こえてくるようになった。
その音が、自分を襲うかもしれない脅威でなく、この、同じ世界に生きている、仲間の気配に感じられて、ミッシェルは苦笑した。
たとえそれが魔獣だとしても、今このときを共有していることが嬉しいのだ。
『こちらの世界にも人がいるはずだ。果たしてどんな暮らしをしているものやら。』
ミッシェルが古文書を紐解き、また先人に教えを乞いて調べた中に、異世界から来た人々のことがあった。
その多くは「魔女の海」と呼ばれる場所から訪れた人々だった。
だがいくつかは、ガガーブの向こうからやって来たと記されていたのだった。
そんな常人離れした交流を可能にしていたのは、彼らの持つ強大な魔法力だとも。
ミッシェルはその魔法使いに会いたいと思った。
古文書の中のその人は既にいないだろうが、その血を引いた者がいるかもしれない。
会いたい。
会って、確かめたかった。
自分のような魔法力を持つ者がいるのか。
彼にとって、その魔法力はどんな意味を持っているのか。
なぜ、こんな持て余すほどに強大な力を一人の人間が抱えるのか。
なぜ……。
だからミッシェルはガガーブを超えようと思ったのだ。
自分の力に溺れたのでもなく、自らの世界に愛想をつかしたのでもなく。
自分という存在を確かめるために。
隅々まで歩き回った自分の世界で、ミッシェルは答えを見つけられなかったのだ。
『なぜ、魔女や魔法使いがいるのでしょう。この世に必要とされない者など、本当に存在するのでしょうか。』
自分を否定することなど、ミッシェルには出来なかった。
『私には、わからない……。私の生きている意味。生きる希望すら…。』
ガガーブを越えても、ミッシェルの想いは変わらなかった。
苦い想いを反芻しながら、いつかミッシェルは深い眠りに落ちていった。