見晴らし小屋の一日は、日の出とともに始まり、日の入りとともに終わる。
アヴィンとアイメル、それにルティスを加えた生活は、まもなく一年になろうとしていた。
若い三人はウルト村のマイルとともに、貴重な働き手として期待されていたし、三人もそれに応えようとしていた。
三人はその日も、一日村の畑で働き、汗を流してきたのだった。

「ファムさんにトマトをもらったから、サラダにするね。」
赤く熟れたトマトのかごを抱えて、アイメルが見晴らし小屋に入っていく。
「おねがいね。」
後ろから声を掛けたルティスは、見晴らし小屋の隣の保存小屋から塩漬け肉を取り出してきたところだった。
料理は、修道院でみっちり仕込まれてきたアイメルの得意だった。
旅暮らし同然だったルティスは、見晴らし小屋へ来てすぐにそれを認め、台所の主はもっぱらアイメルになっていた。
ルティスは得意のナイフ裁きを生かして肉料理を手伝う位だったが、それで十分と納得していた。

「そろそろ祭りの準備をする頃だな。」
農具を洗い終えたアヴィンがルティスに声を掛けた。
「もう? 私が来て一年になるの?」
「ああ、そうだ。去年、祭りまでに戻ってこなけりゃ、俺が探しに行くところだった。」
アヴィンは言った。
「あのときは薪割りしてたわよね。」
ルティスはそう言って見晴らし小屋の周囲を見た。
冬場に使う薪を切っておくのは秋口の大切な仕事だった。
昨年ルティスがここへ来たときには、すでに大量の薪が小屋の壁際に積み上げられていたのだが、今見るそれは半分もない。
ルティスの不思議そうな表情に合点がいって、アヴィンが笑いをこぼした。
「去年は、気を紛らわせるために薪割りしていたからな。すごくはかどってたんだぜ。」
「まあ。そうだったの。」
ルティスがアヴィンを見つめ、二人は同時に笑った。
「本当に、あの頃は気が気じゃなかったんだ。」
真顔になってそう言うアヴィンは、ルティスにはとてもまぶしく見えたのだった。

ふわっと、一陣の風が二人の後ろから吹き抜けた。
続いて間近から元気の良い声が聞こえてきた。
「姉さん! アヴィンさん!」
「えっ?」
声がすぐ後ろから聞こえたので、二人は驚いて後ろを振り返った。
今しがたまで誰もいなかったところに、人が二人立っていた。
「ルカ!」
「ミッシェルさん!」
ルティスとアヴィンは同時に声を上げた。
どちらも二人の知っている人物だった。
ルカはルティスの弟だ。工業都市ギアで働く、若手の技術者だった。
ミッシェルはアヴィンとルティスが旅をしていた頃、手助けしてくれた仲間の一人で、ガガーブの向こう側から来た魔道師だった。
「いったいどうしたの、こんな時間に。それに、どうやって…」
ルカに駆け寄ったルティスは、言いかけてふと気づき、傍らのミッシェルを見た。
ミッシェルはうなずいた。
「明日にはギアへ戻るというので、私がちょっとお手伝いをしました。」
ミッシェルは空間転移の魔法を操る。
おそらくそれを使ったのだろう。
ルティスはミッシェルに軽く頭を下げた。
「ありがとうございます、ミッシェルさん。」
ルティスは改めてルカに向き直った。
それを待っていたように、ルカが言った。
「姉さんに、話があるんだ。」
真剣な声、真剣な顔つきだった。
「ルカ…」
ルティスも、後ろにいたアヴィンも息をのんだ。
今までこんな表情をしたルカを見た事がなかったのだ。
「そう…わかった。」
少し間をおいてからルティスが言った。
「でも、まず中へ入りましょう。泊まっていくでしょ?」
ルカがとまどったようにミッシェルを見た。
「急な事ですみませんが、お願いします。」
間髪を入れずにミッシェルが答えた。
「アヴィン、もう少しお肉を取ってきてくれる? それと、毛布もお願い。」
ルティスがアヴィンを振り返った。
目に、とまどいと気丈さが入り交じっているとアヴィンは感じた。
「ああ、わかった。」
アヴィンは言われるまま保存小屋へ向かった。
ルカが何か大事な用件を持ち込んだのは明らかだった。
それはいったい何なのか、アヴィンには想像すらできなかった。

「で、トーマスの計画は進んでるのか?」
「ええ、順調ですよ。船の強化も進んでいますし。」
来客二人を迎えた夕食は、もっぱらルカとミッシェルの関わっているプラネトス号の遠征の話になった。
エル・フィルディンの有名な船乗りトーマスが進めているそれは、世界で初めてガガーブを船で越えるというものだった。
ミッシェルは魔法でガガーブの嵐を静める協力をし、ルカは船の保守と強化に関してギアの御用聞きといえる存在だった。
「本当は、もう一隻建造した方が良いんですよ。」
ルカは船の事になると言葉に熱が入った。
「新型エンジンを積んで、それなりの強度を最初から持たせた船の方が安心に決まってます。でもトーマス船長はプラネトス号に愛着があるから、いやがるんですよね。」
ルカは肩をすくめた。
「へえ、そうなんだ。」
アヴィンは造船の事など分からないので、当たり障りない相づちを打つ。
「ガウェイン殿からいただいた船ですからね。トーマスには宝物なんです。もう一隻となると費用も問題ですしね。プラネトス号も強化次第で何とかなると、ギアでも考えているのでしょう。」
ミッシェルが聞くと、ルカは不承不承うなずいた。
「越えられるという判断です。それはギアの技術者たちが保証してますよ。ただ僕としては、もっと安全な方が良いんじゃないかと……。」
言葉は途中でとぎれた。

「ルカ君、ずいぶん背が伸びたんじゃない?」
アイメルが場の空気を察したのか、話題を変えた。
「え、そうですか。」
我に返ってルカが答えた。
「もうじきお姉さんに追いつくんじゃない?」
「伸び盛りなんですよ。」
そう答える表情に先ほどの憂いはなかった。
「少し声も低くなったよな。」
アヴィンが言った。
「もうじき声変わりですごい声になるぞ。カラスみたいな。」
アヴィンがわざとがらがら声を出してみせた。
「あ、それは嫌だなあ。」
ルカが苦笑いした。
「ホント、ついこの間は子供だと思っていたのに。」
さりげなくルティスが言った。
「僕はもう子供じゃないよ。」
ルティスの視線をしっかりとらえてルカが言った。
「そうね。しっかりやってるみたいで安心したわ。」
「うん。」
それきり話し出す者がなくなって、食器の立てる音だけが部屋に響いた。

夕食が終わる頃には、ランプがなければ足下もおぼつかない暗闇になっていた。
食事の片づけをアイメルに任せ、ルティスは毛布を手に客人の寝床を敷いた。
見晴らし小屋はそれほど大きな建物ではない。
賢者レミュラスの使っていた寝台をアイメルが使い、アヴィンの使っていた寝台は一回り大きなものに作り直してルティスと二人で使っている。
来客は、晩年レミュラスが揺り椅子を置いていた、暖炉のある部屋に寝泊まりすることになっていた。
「あの、アヴィンさん。」
おずおずとルカが言った。
「姉さんと同じ部屋で休みたいんです。いいですか。」
ランプに照らされたルカの顔は、先刻見晴らし小屋の外で見た表情になっていた。
理由を聞きたいとアヴィンは思ったが、聞いても話しそうにないとも感じていた。
「いいよ。久しぶりに姉弟水入らずで休めよ。」
アヴィンが答えるとルカの表情がふわっと和らいだ。
「ありがとう、アヴィンさん。」
そのあどけなささえ伺える顔つきは、アヴィンが初めて会った頃のルカのものだ。
ルカの本質は変わっていないと感じて、アヴィンは少しほっとした。

「ルティス、今日はルカと休めよ。」
アヴィンは寝床を敷き終えて戻ってきたルティスに声を掛けた。
「え、でも。」
ルティスは異議を唱えた。
「ルカの話、しっかり聞いてやれよ。なんだか真剣な顔をしているしな。」
アヴィンはルティスを励ますように言った。
「ええ、ありがと。」
ルティスはそこでいったん言葉を切った。
「でもアヴィン、私が客間に寝たらミッシェルさんはどうするの。あなたと寝るの?」
「え……」
そこまで考えが及んでいなかったアヴィンは言葉に詰まった。
「うちには他に寝台はないわよ。それともあなた、床に寝る?」
たたみかけるようなルティスの言葉に、ルカは絶句し、ミッシェルはうつむいて笑いを押し殺した。
「姉さん、いつもそんな調子なの?」
あきれ顔でルカが言った。
「あ、あら。そんな事ないわよ。」
あわてて口をつぐんだルティスだが、少しばかり遅すぎたようだ。
「アヴィンが考えなしなこと言うんだもの。」
口をとがらせて抗議したものの、名誉挽回とはいかなかった。
顔を赤く染めたルティスに、アヴィンは二の句が継げなかった。
「私はどこでも構いませんよ。」
ミッシェルが助け船を出した。
「せっかくの機会ですから、あなたはルカ君とゆっくり話をされたらいい。」
まっすぐにルティスを見て言うまなざしには、なにか含むものが伺えた。
アヴィンは神妙な顔でミッシェルを見た。
ルカといい、ミッシェルといい、何かある。
そう感じたのはアヴィンだけではなかった。
「ありがとうございます、ミッシェルさん。それじゃ、一晩我慢してくださいね。」
軽く切り返そうとしたルティスの瞳が、全然笑っていないことにアヴィンは気付いた。
「ええ、わかりました。」
ルティスの表情に気付いたのか気付かないのか、ミッシェルはいつもの穏やかな様子で言い、それからふっとアヴィンの方を向いて小さくうなずいた。

「ミッシェルさん、ルカの用事がなんなのか、知ってるんじゃないか?」
寝室に引き取り、アヴィンは着替えるより先にミッシェルに質問をぶつけた。
ミッシェルは聞かれる事を予想していたらしく、間をおかずに答えた。
「はい、一応は。」
「何なんだよ、一体。」
詰め寄るアヴィンに構わず、ミッシェルはマントを取り、上着を脱いだ。
そして寝台の向こう側に腰掛けると、アヴィンに言った。
「ルカ君は、自分で話をすると言ったんです。まずはルティスさんに。ですから、私からは何もお話しできません。」
その落ち着き払った言い方に、アヴィンの我慢が限界を越えた。
「そんなのないだろ。ルティスはすごく気に掛けてる。俺だって気が気じゃないよ。ルティスとルカはたった二人の肉親なんだ。俺にとっても家族なんだ。ルカがあんな真剣な顔したら、心配でしょうがない。話してくれ、ミッシェルさん。」
「アヴィンさん……。」
アヴィンの勢いに、ミッシェルがとまどいを見せた。
アヴィンは大きく息を吸い込んだ。
「話せる事だけでいい、頼む。」
アヴィンはミッシェルをひたと見据えた。一歩も譲らない覚悟だった。

「そうですか。」
ミッシェルが小さく息を吐いた。
言葉を探すようにしばらく考えを巡らせて、それからミッシェルは言った。
「曖昧な言い方になりますが、ルカ君は、自分の未来に踏み出そうとしているんですよ。」
「未来?」
アヴィンはその言葉を口の中で繰り返した。
「何か大きな選択をするとき、人は自分の気持ちに整理をつけるために、いろいろな事をするでしょう。家族と時間を持ったり、友人に会ったり。ルカ君が今日ここへ来たのも、そういう事です。」
「ルカが何をするって言うんだ? ギアで良い仕事をしてるじゃないか。」
アヴィンはつぶやいたが、ミッシェルは乗ってこなかった。
「すみません。明日も飛ぶので、私は先に休ませてもらいますよ。」
そう言うと、語る事はもうないとばかりにミッシェルは寝台に潜り込んだ。
あからさまに会話を拒否している背中に背を向け、アヴィンは寝台に座り込んだ。
ルカが、どんな未来に踏み出すというのだろう。
『住む場所を変えるとか、仕事を変えるとか…。でも、ギアの連中がルカの腕を手放すとは思えないしな。』
ギルドの仕事で訪れる度、工場長を始めとしたギアの人々はルカに期待している事を話してくれた。
『それじゃあ一体、何だ?』
ミッシェルの言葉は、アヴィンには容易に読み解けなかった。

「ごめんね、姉さん。急に押しかけて、いろいろわがまま言って。」
ルカはルティスと枕を並べて横になると、開口一番謝った。
「いいのよ。訪ねてきてくれて嬉しいわ。私もなかなかギアには行けないもの。」
「うん……。」
ルカは曖昧な返事をし、それから、思い切ったように話し始めた。
「姉さん。僕が遠くへ行ったら、姉さんは嫌かな。」
声の調子で、それがルカが見晴らし小屋を尋ねた、まさに本題なのだと分かった。
「遠くって、どこへ?」
ルティスははやる気持ちを抑えて聞いた。
ルカの返事はなかなか返ってこなかった。
そのうち、スーッと大きく息を吸い込む音が聞こえた。
「今日、船の整備が終わった後でトーマス船長に誘われたんだ。プラネトス号に乗らないかって。」
胸の内に溜まったものをはき出すように、ルカは一気に言った。
ルティスは息を飲んだ。
「プラネトス号に?」
無意識に、両方の手で毛布をぎゅっと掴んでいた。
体中を駆けめぐる血が、急に熱くなって感じられた。
「うん。」
ルティスに話す事ができて安堵したのか、ルカの声は軽く、沸き立つような勢いを帯びてきた。
「僕、前から船の事でいろいろ船長に提案していたんだ。エンジンや船体を改造して強化するのも良いけど、できれば新しく建造した方が良いとか。調査から戻る度に修理するより、いっそ技師を船に乗せた方が良いとかね。それで、もし僕にその気があるなら、プラネトス号の整備をやってみないかって言われたんだ。」
「そんな簡単に言わないで、ルカ。プラネトス号がどんな危険な航海をするか、あなたはよく知ってるでしょ。」
ルティスは、ルカの意気揚々とした言葉を聞いていられず、口を挟んだ。
「うん、知ってる。多分、トーマス船長の次くらいに、危険な事も勝算も知ってると思うよ。」
ルカの口調に変化はなかった。
「今まではガガーブの嵐に少し入ってみては、船の強度や、操船方法や、ミッシェルさんの魔法の補助を試していたんだ。危険だと思えば、引き返してくる事ができたんだよ。でも、準備はそろそろ終わりになるんだ。そう遠くないうちに、プラネトス号はガガーブを横断する航海に出発するんだよ。」
ルカの気持ちはすでに船の上にあるようだった。
そう感じた途端、のどにこみ上げてきたものがあって、ルティスは思わず口元を覆った。
「トーマス船長は自信を持ってる。ギアの技師たちも万全だと言ってる。だけど、足りないものがあったんだ。」
ルカはルティスの方を向いた。
「ガガーブの向こうの世界にギアのような工業都市があるとは限らないんだよ。少なくともミッシェルさんの世界にはないんだって。もう一つの世界にもないかも知れない。プラネトス号が向こうの世界へ行って、安全にこちらへ戻って来るには、自分で船を補修する能力が必要なんだよ。誰かが行かなきゃならないんだ。」
ルカは最後のくだりを熱っぽく語った。
ルティスは目を閉じて、ルカの言葉を聞いていた。
ずっと子供だと思っていた。
ギアで工業技術を習得して、安定した生活をしてくれれば何よりだと思っていた。
それがどうして、危険で一杯の船に乗る事になどなるのだろう。
「ルカは、行きたいのね?」
ルティスは確認するように尋ねた。
ルカは迷ったりしなかった。
「うん、僕は行きたい。ギアの皆で改良したプラネトス号を、ずっと守っていきたい。」
はっきりした意思表示だった。
ルティスは胸のあたりに息苦しさを覚えた。
沸き上がる感情のままに反対したい思いが募ったが、ルティスはその思いに耐えた。
「それにね。」
ルカが照れたように言った。
「僕もやっぱり、未知の世界へ行ってみたい。そして、行ったからには帰ってきたいんだ。トーマス船長や、船の皆や、ミッシェルさんも一緒に。」

「アヴィン。ねえアヴィン、起きて。」
軽く揺り動かされて目を覚ましたアヴィンは、自分を見下ろしているルティスを見つけた。
「おはよう。ずいぶん早いな。」
辺りがまだほの暗いことに気付いてアヴィンが言った。
「少し話があるの。外に行きましょ。ミッシェルさんを起こしたら悪いわ。」
ルティスは小声でささやいた。
「あ、ああ。」
アヴィンは寝台から抜け出すと、手早く服を着込んだ。
寝台の半分を占領しているミッシェルは、まだぐっすりと眠っていた。
ルティスに続いて部屋を出、小屋を出て早朝の空気の中に出る。
小屋の中で感じた暗さは外に出るとほとんどなくなっていた。
秋の朝は涼しく、寝ぼけていた頭がすぐにはっきりとしてくる。
ルティスの表情にはどこか思い詰めたものがあった。
「アヴィンはミッシェルさんから何か聞いた?」
ルティスがアヴィンに尋ねた。
「ああ。いや、内容は聞いてない。ルカが自分で話すと言ったらしいんだ。だからミッシェルさんからは話せないってさ。」
「そう。」
アヴィンが答えるとルティスはがっかりした様子だった。
「少し歩こうか。」
アヴィンはルティスを促して歩き始めた。

「俺がミッシェルさんから聞き出せたのは、ルカが自分の未来を決めようとしているってことだけなんだ。どういう意味なのか、さっぱり分からなかった。」
アヴィンはルティスに言った。
「そう……。間違ってないわ。ルカは自分の未来を決めてきたのよ。」
ルティスはため息をついた。
「どういう話だったんだ?」
アヴィンが聞いた。
「あの子、トーマス船長に誘われたのよ。プラネトス号に乗らないかって。」
「何だって?!」
アヴィンは思わず立ち止まって声を上げた。
「どうしてルカがそんな危険な所へ行かなきゃならないんだ。」
アヴィンが言うと、ルティスは安堵したような笑みを浮かべた。
「やっぱりそう言ってくれるのね。」
ルティスはアヴィンの腕に自分の腕を回した。
そのままぎゅっと体を押しつける。
「ルカはプラネトス号の整備をするんだって。とても誇らしそうな言い方だったわ。」
アヴィンが顔をのぞき込むと、ルティスは堅く目を閉じていた。
辛さを押し殺している表情だった。

「ルティスは賛成したのか?」
ややあって、アヴィンはルティスに尋ねた。
ルティスは体を起こした。首を横に振る。
「まだ、答えてないの。」
アヴィンから離れ、小屋の横の大きな栗の木に背中をもたせかける。
「そんな危険な所へ行かせたくない気持ちはあるの。だけど私に、ルカの決意を止める権利なんかないのよ。昔あの子を放り出して、オクトゥムに走った私に…。」
ルティスは自嘲気味に言った。
「ルティスは戻ってきたじゃないか。昔の事に縛られることなんてないんだぞ。」
アヴィンは言った。
「そう? でも私、一生忘れる事はないと思うわ。だから、ルカの事も止めてはいけないと思うの。だけど胸が張り裂けそう。普通の船でも危険なのに、ガガーブを越えるのよ。どれだけ危険と隣り合わせなのか、想像するだけでも苦しくなるわ。」
「ルティス。」
アヴィンはルティスの肩に手を伸ばした。
ルティスはまっすぐ飛び込んできた。
背に腕を回すと、ルティスの身体が震えているのが分かった。
「一人で苦しむな。ルティスが苦しいときは俺が助けるよ。ルカが信じるものを、俺たちも一緒に信じよう。トーマスやミッシェルさんを信じよう。」
アヴィンの腕の中でルティスがうなずいた。
「ルティスを一人にしやしない。離ればなれは、辛いもんな。」

見晴らし小屋の中では、アイメルたちが起き出していた。
「おはようございます。」
食堂に顔を出したミッシェルは、そのまま食卓に腰を下ろした。
「おはようございます、ミッシェルさん。よく眠れました?」
「ええ。」
ミッシェルは愛想良く答えた。
「お兄ちゃんたち、外にいるみたいです。」
アイメルが言った。
「ルカ君のお話の事、話し合っているんでしょうか。」
小首をかしげて尋ねる様子は修道院で育ってきた慎ましやかさの賜物だった。
「そのようですね。」
ミッシェルは目を細めて窓の外を見やった。

「おはようございます。あの、姉さんたちはどこに?」
ルカが食堂に入ってきて開口一番尋ねた。
「おはよう、ルカ君。お兄ちゃんたちなら外にいるみたいよ。」
アイメルが教えると、ルカはきびすを返して外へ出て行こうとした。
「ルカ君、ちょっと待って。」
ミッシェルがその背中に声を掛けた。
半分ドアの向こうに消えかかっていたルカが、くるりと向きを変えて戻ってきた。
「何ですか、ミッシェルさん。」
少しいぶかしむような顔つきだ。
ミッシェルは微笑を浮かべてルカに言った。
「もうしばらく、二人きりにさせてあげましょう。」
「?」
ルカは不思議そうな顔で窓に近寄って外をうかがい、あわてて首を引っ込めた。
後ろ姿だったが、アヴィンがルティスを抱きしめているのが見えたのだ。

ミッシェルは隣の椅子へ腰掛けたルカに話しかけた。
「お姉さんに頼れる人がいて良かったですね。」
「え、あ、はい。」
ルカは心ここにあらずといった様子だったが、かろうじて自分を保った。
「姉さんがここで暮らすって言ったとき、正直少し寂しかったんです。ギアへ帰ってきてくれると思ってましたから。でも、ああしてアヴィンさんが受け止めてくれてたんですね。今度の事も、きっと……。」
期待と不安を混ぜ合わせたような顔つきでルカはつぶやいた。
「返事はもらったんですか?」
小さな声でミッシェルが聞いた。
ルカは首を横に振った。
「姉さんは考えさせてほしいって言いました。今、アヴィンさんと相談してるんだと思います。」
「そうですか。」
「わかってもらえるでしょうか、ミッシェルさん。」
ルカはミッシェルに問いかけた。
「駄目と言われたからって、あきらめるんですか?」
ミッシェルはルカにはっぱを掛けた。
ルカの瞳が輝きを帯びた。
「そうですよね。わかってもらえるように、もっと説得しなくちゃいけませんよね。トーマス船長だっていつかガガーブを越えるって、ずっと長い間言い続けていたんですから。僕だって…」

「はい、どうぞ。」
熱っぽく言ったルカの前に、赤い液体の入ったコップが置かれた。
見上げると、アイメルが笑顔で立っていた。
アイメルは同じ物の入ったコップをミッシェルの前にも置いた。
「ウルト村自慢のトマトジュースよ。どうぞ召し上がれ。」
「あ、ありがとう、アイメルさん。」
「いただきます。」
二人は新鮮な飲み物でのどを潤した。
「どんな相談に来たのか、大体わかっちゃったわ。」
アイメルはルカに言った。
「ルティスさんの事なら心配要らないわ。お兄ちゃん、本当にルティスさんの事が大事なんだから。」
アイメルの言葉にルカも同意した。
「僕もそう思います。あらためて、お似合いだなって思いました。」
「そうでしょ。だからきっとお兄ちゃんたちはわかってくれると思うわ。」
アイメルの励ましにルカは嬉しそうにうなずいた。

やがて、アヴィンとルティスが見晴らし小屋に戻ってきた。
「みんな起きてたのか。」
ひとしきり朝の挨拶を交わすと、アヴィンはルカに向かい合った。
「ルティスから話は聞いた。」
アヴィンは単刀直入に切り出した。
「トーマスのプラネトス号に乗りたいんだってな。」
ルカはごくりとつばを飲み込んだ。
アヴィンのすぐ後ろに立って、ルティスもルカを見つめていた。
「はい。」
「普通の船乗りより厳しい道だぞ。」
「はい。」
「ギアで今の暮らしを続ける事も出来るんだぞ。」
アヴィンの問いに、ルカは目を見開いた。
「製鉄所の仕事は他にも出来る人がたくさんいます。プラネトス号の改造に関わって、船の隅々まで見て知っているのは僕だけです。これは僕の仕事なんです。」
最後の一言を発しながら、ルカは胸が熱く震えるのを感じていた。
これは一人前の責任ある仕事なのだと、改めて実感が沸いてきた。

「そうか。そこまで言い切れるのか。」
アヴィンは満足した様子でルカを見た。
「アヴィンさん、それじゃあ…」
はやるルカにアヴィンは言った。
「ルティスの事は俺に任せてくれ。ただ、俺たちが何の心配もせずに送り出すんじゃないってことは、忘れないでくれ。どこに行っても、ルティスの気持ちを忘れずにいてやってくれ。それだけ、お願いだ。」
アヴィンはそう言うと、ルカの手を取り堅く握った。
「頑張れよ、ルカ。」
「ありがとうアヴィンさん、姉さん。」
ルカは目頭を熱くさせて礼を言った。
「身体に気を付けるのよ。頑張ってね。」
ルティスがそう言い、ルカの頭を包み込むように抱きしめた。
その温かな抱擁が記憶の底にあった母親のものと重なり、ルカは新たな涙をあふれさせたのだった。

その日、時間の許すまで水入らずの時間を過ごしたルカは、昼下がりにミッシェルと共に出発した。
「これからどうするの?」
ルティスが聞いた。
「トーマス船長が、先にギアへ向かってるんです。あちらは僕の一存だけじゃ埒が明かないと言って。船長と一緒にギアのみんなを説得します。」
ルカは自信を持ってそう言った。
「そうなの。じゃ、本当に出発するまでには間があるのね。」
「うん。それに、ボルンに来る事も多くなるから、ちょくちょく会いに来るよ。」
ルカは姉を気遣って言った。
「私も会いに行くわ。」
ルティスは答えた。

「ではそろそろ行きましょうか?」
ミッシェルがルカに声を掛けた。
「はい、お願いします。」
ルカが言った。
「ミッシェルさん、ルカの事お願いします。」
ルティスはミッシェルに挨拶をした。
「ええ、出来る限りの事をさせていただきます。」
ミッシェルは答えた。
「トーマスにもよろしく伝えてくれ。俺たちの弟を頼むと。」
アヴィンもミッシェルに言った。
「わかりました。必ず伝えます。」
一つうなずいたミッシェルは、杖を構え直すとルカの手を取った。
「では。」
「姉さん、……義兄さん、行ってきます。」
転移魔法の光に包まれながら、ルカは二人に挨拶を残した。

「行っちゃったわ。」
ルティスは寂しそうに言った。
「今度来るときは、機械油じゃなくて潮の香りをさせているかしら。」
「そうかもな。」
アヴィンはしみじみと言った。
去り際、初めて義兄と呼ばれた。
それがルカなりの信頼の現われだと感じて、アヴィンは嬉しかった。

アヴィンは空を仰いだ。
陽は高みにあった。
「まだ一仕事出来るな。行こうか、ルティス。」
「そうね。」
ルティスが答えた。
「ファムさんが首を長くして待ってるわね。」

2006/9/16


毎回言っている気もしますが、久しぶりの創作です。
この話は2006年の春先から抱え込んでいました。
最初はもうちょっとアヴィン寄りな話だったんですが、とあるサイトで実にかっこいいルカ君に出会ってしまったんですね!
それでかなりの軌道修正となりました。
インスパイアされたままのテンションでは書けなくて、寝かす事約半年。
やっと自分なりに消化した話が書けたかなと思っています。

私が書くと、ルティスはどうしても旧作寄りの、ドライでちょっとツンデレっぽいルティスになりますね。
アヴィンは新も旧も別人として書き分けられるような気がするのですが、ルティスは難しい・・・。
ルカは、最初はまだ子供として登場させるつもりだったのですが、若者として歩き始めたくらいの設定になりました。
雫の一年半後だと、十四歳?十五歳かな。
ジュリオやフォルトと同じ年なので、背伸びしても良いかなと思いつつ書きました。

案の頃には、見晴らし小屋の準住人マイルとか(笑)、トーマスからの手紙とか、ネタがあったのですが、
それらを含めたときにまとめる力量がありませんでした。それらはまた、別の機会に。