追っ手は執拗だった。
それはこちらの目論見が成功している証であったが、
十歳にもならない子供と共に逃亡を続けるのには限界があった。
今日も日中は隠れ、夕闇が降りてから歩き出したのだ。
『大人の足ならあと一日も歩けばブリザックに着く。しかし……。』
ガウェインのかたわらを歩いている子供は、足にマメをこしらえて一歩踏み出すごとに口端をゆがめていた。
『このままでは追いつかれるかも知れん。』
ガウェインは左手に広がる海を見やった。
視界の先、海岸から幾らも離れていないところに、小さな帆を張った一艘の小船が見えていた。
この辺りは良い漁場だ。
早朝には漁をする船が数多く見られる。
だが、殆ど日も暮れたこの時間に船を出すなど、まともな漁師のする事ではなかった。
あれは人目に付いてはまずい事、おそらくは密漁をしているのだ。
港町で生きてきた経験からガウェインは直感した。
『いっそ海上を行くか。』
そういう相手なら、金を積めばブリザックに運んでくれるだろうし、それなりの報酬で口を封じる事も可能だろう。
「アヴィン、船に乗るか?」
ガウェインは傍らの子供に問い掛けた。
呼び掛けられた子供は目を丸くしてガウェインを見、すぐに海へ目を移した。
闇の中に船を見つけた子供は、ある種の期待を持ってガウェインを見返した。

「おーい、そこの船。乗せてくれんか。」
ガウェインは口元に両手を当てて船に向かって叫んだ。
船の上の人影が、慌てた様子で右往左往する気配があった。
「ブリザックまで乗せてくれないか。」
ガウェインは再び叫んだ。
しばしの沈黙のあと、若そうな声が予想通りの返事をよこした。
「こっちも忙しいんだ。他を当たってくれないか。」
「子供が疲れて動けんのだ。ちゃんと礼はする。なにとぞ頼む。」
ガウェインは重ねて言った。

すこし間があった。
小船は暗闇にまぎれて、船上でどんなやり取りがされているかわからなかった。
が、やがて船があると思しきあたりに小さな黄色い明かりが点った。
明かりはゆらゆらと揺れながら海岸に近づいてきた。
「なんだ、おっさんとガキか。本当に代金を払えるんだろうな。」
手に持ったランプを二人の方にかざして、若い男が言った。
「ブリザックまでいくらで運んでくれるのだ。」
ガウェインが尋ねた。
金の交渉は先に済ませておくに限る。
ブリザックに着いてから揉め事になって注目されるのは避けたかった。
二人をじろじろと見ていた男は、ガウェインの背中にメギドフレイルを見つけた。
「一人1000ロゼだな。二人で2000かっきりだ。」
男が言った。
後ろの方で小ばかにしたような笑い声が上がった。

「高いな。」
ガウェインは眉を寄せた。足元を見られているとしか思えない額だ。
「こっちの都合も聞かずに乗せろ、運べって言ってんだぜ。払えないなら乗せられねえな。」
若い男は平然と言った。
「二人で1000ロゼにならんか。」
ガウェインは値切った。
「トーマス、そんなじおっさんうっちゃっちまえよ。」
後ろから柄の悪そうな声がした。
「馬鹿野郎、黙ってろ!」
男が振り返って怒鳴った。
「そ、そんなに真剣に怒鳴るなよ。わかったよ…」
後ろでぼそぼそと謝る声がした。
「二人で1500ロゼ。それ以上まけられねえ。」
ガウェインに向き直った男が断言した。
「わかった。それでお願いする。」
ガウェインは懐から財布を取り出し、1500ロゼを男に渡した。
「確かに1500ロゼ頂いたぜ。乗ってくれ。」
男は二人が飛び移りやすいように、船べりから数歩下がった。

「先に乗りなさい。」
ガウェインに促され、子供は思いきり飛んで船に乗った。
着地の衝撃で船が揺れた。
続いてガウェインが飛び移ると、男が明かりを吹き消した。
船の上は真っ暗になった。
「ブリザックに着くのは夜明け前だな。あんた、休んでてもいいぜ。」
男はガウェインに言った。
「わしはいい。この子を休ませたい。」
ガウェインは子供の肩に手を置いた。
「こっちに帆布があるから、適当に掛けて寝ろよ。」
別の声が二人に言った。
目が闇に慣れてくると、船の後方に小さな布の山があるのが見えた。
子供は山の傍らに屈みこみ、帆布を一枚引っ張り出した。
それを広げて身体をくるむと子供はさっさと横になった。
「お前らも今日はもういい。休んでくれ。」
トーマスと呼ばれた男が仲間に言った。
「おう。」
一人が嬉しそうに返事をした。
「一人で大丈夫か。」
もう一人は心配そうに聞いた。
「任せとけ。」
トーマスは自信たっぷりに請合った。

星明りの中、船べりに打ち付ける波の音だけが、規則正しく続いていた。
ガウェインは船の前方に陣取り、じっと水面を見つめていた。
トーマスと呼ばれた若者は帆を操っていた。
『なかなか筋が良いわい。』
ガウェインは若者の技量を上等だと判断した。
『これほどの技能を持ちながら闇稼業に身をやつしているとはな。勿体無いことだ。』
「なあ…」
遠慮がちにトーマスが声を掛けてきた。
「何だ?」
ガウェインは身体ごと向き直った。
「あんた、ブリザックのガウェインだろう?」
若者の抜け目ない瞳がガウェインに注目していた。
「そんな事を聞いて何になる。お互い知らぬ存ぜぬが最も後腐れのない事とわかっておるのだろう?」
ガウェインはじっとトーマスを見返して言った。
「へへっ。そうだけどよ。」
トーマスは肩をすくめて笑った。
「じゃああんたが誰でも良いや。ブリザックで今持ちきりのうわさを教えてやるよ。何日か前にカテドラールで事件が起こった。オクトゥム教徒が乱入したんだそうだ。やつらが何を探していたのか知らないが、連中、まだ血眼になって探し回ってる。ブリザックの港の白い白鳥、力の賢者ガウェインの持ち船『プラネトス号』も見張られてるって話だ。」
「ほう、それは大事のようだな。」
ガウェインは冷静に答えた。

「だろ?」
トーマスはニヤッと笑った。
「もし俺が今ガウェインに会ったら、ブリザックへ戻るのはみすみす敵の手に落ちるもんだと進言するね。なんせ、やつらの目が街じゅうに光ってるからな。」
トーマスは一転してひどく真面目な顔つきになった。
「このまま船を進めるのは危険だぜ。」
「………。」
ガウェインはじっとトーマスを見ていた。彼を見慣れた者だったら、それが感情を押し殺そうとする表情だと気付いたかもしれなかった。
だが無論、トーマスにそんなことはわからない。
「ま、信じてもらえないのは仕方ないよな。たまたま行き会っただけだしな。」
独り言のようにつぶやいて、トーマスはまた操帆に専念した。

「ブリザックがだめとしてだな、お主はどこに降りるのが良いと思う?」
ややあって、ガウェインがトーマスに尋ねた。
返事があることを期待していなかったトーマスは、一瞬言葉に詰まった。
「…そうだなあ。定期航路のあるセータもだめだろうな。
あとはその辺の名もない入り江に着けるのが関の山か…。」
トーマスは考えながらしゃべった。
「いや、まてよ。俺だったら、……そうだな、ノトス地方へ渡るな。
そしてほとぼりが冷めるまでじっとしてるさ。」
「ほう。」
ガウェインが感心したような、あきれたような、どちらにも取れそうな相槌を打った。
「なんだよ、この船じゃ海を渡れないとでも思ってるのか。自慢じゃないが、何回かボルンの辺りへ行ったことはあるんだぜ。」
トーマスは口を尖らせて抗議した。
「この船でか? それはとんでもない冒険心だな。命があることに感謝せねばならんだろう。」
ガウェインは今度は心底驚いて船を見渡した。
帆は張っているものの、近海用の小型船なのである。
「うるせえな。それよりどうすんだ。俺はあと3000も払ってくれりゃ、ボルンの辺りの人気のない入り江に降ろしてやるぜ。」
「ふむ……。」
ガウェインは顎鬚に手をやって考えをめぐらせた。
この男の言うことが全くでたらめとは思えなかった。
むしろ、想像通りにオクトゥムが動いていると知ることが出来たわけだ。
このまま出し抜いてやるのが良いだろうとガウェインは思った。
幼いアヴィンにあまり長い逃避行は続けさせたくなかった。

「お主の言う通りにしよう。ただ、船を着けるのはフィルディンの東、ネフティスの祠のあるウルト村のあたりにして欲しい。」
ガウェインは答えた。
「だいぶ東だな…。わかった。俺はトーマスだ。あんたたち二人の命、確かに預かったぜ。」
トーマスはそう言って右手を差し出してきた。
ガウェインはまじまじとトーマスを見た。
「済まんがわしは名乗れん。決してお主たちが信用できないからではない。何も知らずにいればこれ以上迷惑を掛ける事もないでな。互いに名も知らぬ者を乗せた、それだけのことだ。」
ガウェインはそう言って、差し出された手を握り返した。
「よろしく頼む。」
「わかってるって。」
トーマスが自信たっぷりに言い返した。

朝になって、二人の仲間はトーマスの方針転換を知らされた。
「たった三人で大陸を渡るのかよ。」
「すぐに終わる仕事だって言ったじゃねえかよ。」
仲間達は口は悪かったが、なぜか実力でやめさせるぞという強引さはなかった。
「うるせえな。そっちのお方が一人に1000づつ上乗せしてくれるって言ってるんだ。つべこべ言ってないで、飯の支度をしてくれよ。」
トーマスはガウェインの方に向かってあごをしゃくった。
「1000ロゼ……ほんとですかい?」
一人がガウェインに尋ねた。
「うむ。ただし、成功してから払わせてもらうぞ。」
ガウェインはちらりと金袋を持ち上げて見せた。
「わかりやした!」
男はころりと態度を変えた。
「おい、坊主。俺と一緒に魚釣りだ。」
男はちょうど起き出したアヴィンの頭をぽんと叩くと、上機嫌で船尾に歩いていった。

一日中、陸の見えない航海だった。
ガウェインは午前中折に触れて助言を与え、船乗りたちから尊敬を勝ち取った。
午後になると、前夜ほとんど眠らなかったトーマスが休憩し、
その間の判断はガウェインに委ねられたのだ。

「お主たち、何故ちゃんとした船乗りにならんのだ。」
ガウェインはトーマスの仲間たちに尋ねた。
「俺たちはいろいろ悪さをして、名が知れてっから。まっとうな船主は相手にしてくれねえよ。」
屈託のない返事が返ってきた。
「トーマスは悪い事をするわけじゃないけど、あいつは法螺吹きだからな。」
もう一人もニヤニヤ笑って頷いている。
「ほう。そんな風には見えなかったが。」
ガウェインは促すように答えた。
「いつか東の果てを越えてみせるって、あいつの口癖なのさ。今まで誰一人戻ってこなかった荒れた海なのに。あいつはそれさえなきゃまっとうな船乗りになれるのにな。」
「そうそう。夢どころか妄想だからな。船主がひるんじまう。」
「東の海……それはまた、大胆な話だな。」
ガウェインは帆布の間に埋もれて眠っているトーマスを見やった。
指揮をしている間は成人に見えたのだが、眠っている顔はどう見ても十代の少年のものだった。
こんな年端の行かない若者が東の果て、ガガーブを越えようと思っているとは。
『頼もしいやら危険極まりないやら。確かにこんな夢想をする若者を自分の船に乗せたくはないだろうな。』
ブリザックの、なじみの船主たちの顔を思い浮かべ、ガウェインはそっとほくそ笑んだ。

夕刻、起き出したトーマスに全てを委ね、ガウェインはアヴィンと共に休んだ。
カテドラールを脱出して以来、敵がいないことの明らかな夜は初めてだった。
ぐっすりと眠り、目を覚ましたのは日の出のあとだった。

「もうそろそろ、ノトスの海岸が見える頃なんだが…。」
トーマスがガウェインに話し掛けてきた。
声音に彼らしくない迷いがあった。
ガウェインは上空を仰いだ。
「夕べはずっと同じ風だったのかな。」
「ああ、いい風だった。ボルンに着けるより、心もち東に向けたんだが。陸が見えてこないはずないんだが……。」
トーマスは困惑顔だった。
「お主、この季節にこの海を渡ったことはあるか?」
ガウェインは真剣な声で尋ねた。
トーマスはハッっとして顔を上げた。
「今の季節は…ない。一月ずれた頃ならあるぞ。」
「一月もずれては話にならん。今の時期、ここは海流の流れが強くなるのだ。予想より、ずっと東に流されておるだろう。」
ガウェインが断言すると、トーマスの顔が緊張に固まった。
「東へ……。」
「ずるずると流されては、海の果てに続く海流に飲み込まれてしまうぞ。すぐに向きを変えるんだ。」
ガウェインの言葉に、ほかの船乗りも震え上がった。
「わ、わかった!」
トーマスはきゅっと口を引き結び、舵に付いた。
ガウェインは帆を受け持った。
「なあに、心配ない。半日頑張れ!良いな!」
「おう!」
ガウェインの叱咤に三人が応えた。
大人たちの邪魔にならないよう、アヴィンは一人、船尾に近いところに座り込んでいた。

「あれ!」
日差しが天頂から照りつけるようになった頃、不意にアヴィンが前方を指差した。
「ん?」
トーマスが指差された方角に目を凝らした。
うっすらと、影のようなものが水平線にあった。
「目が良いじゃねえか、坊主。」
そう言ってトーマスはぐいっと親指を立てて見せた。
「うむ、間違いないようだな。」
ガウェインも頷いた。
「た、助かった~。」
船乗りたちからも安堵の声が出た。

おぼろげだった陸地は、やがてくっきりとその姿を見せはじめた。
「あとは頼むぞ。」
ガウェインは船をトーマス達に任せ、下船の準備をした。
「どうだ、足は良くなったか。」
じっと陸地を見ているアヴィンに話し掛ける。
アヴィンは大丈夫と言うようにこっくりと頷いた。
「降りたら、あとはもう一日かそこらの辛抱だ。わしに少々当てがあるでな。」
トーマス達には聞こえないよう、小声で話し掛ける。
アヴィンはじっとガウェインを見つめ、小さく頷いた。

夕暮れを待って、トーマスは船を海岸に付けた。
「世話になったな。これは約束の契約金だ。」
ガウェインは3000ロゼをトーマスに差し出した。
「これは、受け取れねえよ。俺のやり方じゃ、あんたたちを無事に送り届けられなかった。
世話になっちまったのはこっちの方だ。」
トーマスはロゼをガウェインに押し戻した。
「遠慮することはない。お主の大きな夢にはいくらも金がかかるだろう。取っておけ。」
ガウェインはじっとトーマスを見て言った。
「俺の夢? おめえら、しゃべったのか!?」
トーマスは赤くなって仲間を振り返った。
「冒険家の夢など、世間には笑いものの種にしかならんものだ。大切なのはお主の気持ちだ。夢はお主が育てるものだ。」
「ガウェイン……。」
トーマスは食い入るようにガウェインを見た。
「もっとも、口止め料も入っているからな。受け取ってもらわねば困る。くれぐれも他言無用に頼むぞ。」
「ああ、心配するな。この海に誓って、俺は約束を違えねえよ。」
トーマスは胸を張って答えた。

ガウェインとアヴィンは船を下りた。
「じゃあな。」
船がゆっくりと離れていく。
「お主たち、気が向いたらブリザックのわしの屋敷に来るといい。」
去って行く船に、ガウェインが声を掛けた。
「あんたが無事にブリザックへ戻ったらな。そしたら行ってやるよ。」
軽い冷やかすような笑い声が浜辺に届いた。
そうして、船は波間に消えていった。

「さあ出発するぞ、アヴィン。朝にはぐっすり休めるところへ着くだろう。」
ガウェインが言うと、子供は納得したように頷いた。

「トーマス、本当にブリザックへ行くのか?」
仲間が聞いた。
「もちろんさ。あの人は俺の夢を笑わなかった。ガガーブ越えは、夢物語じゃないんだ。
俺はやるぜ! いつかきっと、ガガーブを越えてみせる!」

-完-

2003.7.21


海の日にちなんで、海にゆかりのある二人のキャラクターにスポットを当ててみました。

新版「朱紅い雫」の冒頭、カテドラールを脱出したガウェインとアヴィンの逃避行に、
当時19歳か20歳かな、若きトーマスを絡ませてみました。
うーん、ちょっとトーマスが品行方正過ぎますかね。

ガウェインの元で水夫をしている旧版「雫」では真面目な印象。
ある程度独り立ちしている新版「雫」では割りとおおらかな印象。
そして「海の檻歌」ではユーモアたっぷり、多彩な印象のトーマスなので、
どのあたりを取るかは悩んだところでした。

でもこの人は結構描きやすい気がします。
書く時に悩んでいないだけかも知れませんが…。