遠くへ行きたい

02

ラップが食堂へ戻ると、ウェルが様子を伺うように顔を上げた。
ラップは軽く会釈だけすると、暖炉の側にいるデンたちの横に座り込んだ。
機嫌が悪いのが伝わったのだろう。
ウェルは話し掛けて来なかった。

暖炉の火を見ながら、ラップはサンドラとのやり取りを思い出していた。
結局旅の話など一言もしなかった。
食堂は広くて、火があっても背後から冷気が忍び寄ってきた。
サンドラの部屋とは大違いだった。
あの暖かさが幸せでなくてなんだと言うのだろう。
火を焚く事すらない洞窟の中を思い出して、ラップは無性に腹立たしかった。

ラップはデンとゴンの部屋へ泊まることになった。
片方のベッドを空けてもらい、残りのベッドにデンとゴンが一緒に横になった。
子ども用の毛布は小さくて、足を伸ばすとつま先が外に飛び出した。
「ラップ兄ちゃん、お腹治った?」
ゴンが聞いた。
「ああ。もうあんまり痛くないよ。」
ラップは聞かれてはじめて気が付いた。
塗ってもらった鎮痛剤が効いたのだろう。
よほど激しく動かなければ、痛みは感じなくなっていた。
「あいつ、悪い奴なんだ。」
デンが言った。
「昼間のあいつかい?」
ラップは聞き返した。
「うん。グリムゾンって昔は悪いことをしていたって、お頭が教えてくれた。」
デンは得意そうに言った。
「子どもを棒で殴るんだから、今でも悪い奴だよ。」
ラップは答えた。
「おいらが大きくなったら、こらしめてやる。」
ゴンが言ったので、ラップは苦笑した。
子どもは無邪気だと思う。
相手の強さも見ずに、自分が一番になると思っている。

「強くなっても、弱い人をいじめては駄目だよ。」
ラップはゴンに言った。
「ええー、どうして?」
「自分がいじめられたら、仕返ししたくなるだろ。」
「うん。」
「ゴンが仕返ししたら、相手はもっと強くなって、またやり返してくるよ。」
「そしたらもっともっと強くなる!」
ゴンが言うと、デンが笑った。
ラップもつられて笑った。
「ゴン、それじゃいつまでたっても終わんないよ。」
デンが言った。
「じゃあ、一番になればいいの?」
ゴンがどちらにともなく聞いた。
「一番になったって、ずーっと一番でいるのは大変だぞ。」
デンが答えた。
「おいら負けないもん!」
ゴンが言った。
ラップはその単純さがうらやましいと思った。

「一番強くならなくたって、いじめたり仕返ししなければ喧嘩にはならないよ。」
ラップはゴンに言った。
「うん…。でも、おいら一番がいいなあ。」
ゴンは納得できない様子で口の中でもごもごとつぶやいた。
「グリムゾンみたいな奴は、強くても良い人じゃない。あんな人に勝っても偉くない。弱い人をいじめるような大人になっちゃだめだよ。」
ラップは言った。
半ば自分に向けて言っているようなものだった。
魔法を悪事に使うような魔法使いになりたくない。
グリムゾンを見てはっきりとわかった。
攻撃魔法は人に向けちゃいけないものだ。
ましてや自分の満足のために使うなんて、大人の風上にも置けない。

昼間は簡単に負けてしまい、正直悔しい思いをした。
だが、だからと言ってグリムゾンに勝ちたいとは思わない。
町に住み、大旦那に雇われていても、グリムゾンはまともな人間には見えなかった。
人の営みの裏の部分、闇の部分で活躍して生きているように感じた。
それは、普通の人とは相容れない者、人並みの暮らしからはぐれ落ちた者の生きる場所だ。
あちこちの国をさすらっているからと言って、ラップは心根まではぐれ者になったわけではなかった。
『僕は悪い噂を立てられるような魔法使いにはならないぞ。』
ラップは思った。
『そして、いつかはちゃんとした師を探し当てて、いろんな魔法を教えていただくんだ。』
そのためにも、暖かくなってきたらシャリネを目指そう。
ラップは改めてそう思った。

「兄ちゃん、おやすみ。」
「おいらもおやすみー。」
デンとゴンが、眠そうな声で言った。
「うん、おやすみ。」
ラップも挨拶を返した。
間もなく子どもたちの規則正しい寝息が聞こえてきた。
ラップはなかなか寝付けなかった。
ベッドで眠るのが久しぶりだったからか、それとも毛布が小さいために足を折り曲げている、窮屈な姿勢のせいかもしれなかった。
部屋には暖を取るものは無く、足先を出しているととても冷たかった。
『暖かなのはサンドラの部屋だけなんだ…。』
ラップは思った。
サンドラの父親は、息子をかわいがるトンプソンの事を色々非難していた。
だが、サンドラもずい分と甘やかされているのではないだろうか。
彼女のベッドに掛かっていた毛布は、子どもたちの使っている物に比べたら羽毛のように柔らかで、きめ細やかだった。
そして立派な暖炉には赤々と火が入っていた。
デンとゴンは拾われただけで養子ではないかもしれないが、それでもまだ歳の行かない子どもだ。
サンドラだけ手厚く構ってやるのではなく、デンとゴンにも、もう少し暖かさを配慮してやっても良いように思われた。
『でも、こうやって屋根の下へ住まわせてもらえるのは幸せだよな。』
ラップはデンとゴンを見やって思った。
魔法使いには望むべくもない安住した暮らしだった。
『魔法を捨てたら、こういう暮らしも出来るのかな。』
滅多に考えない妥協した思いがラップの頭をよぎった。
労働を求めて町や村に滞在するとき、ラップは極力魔法を使わずに過ごした。
常にそうやって魔法を隠していれば、働き手のない家の養子にでもなって安定した暮らしが出来るかもしれなかった。
時折人気のない場所へ行って風を呼び、あるいはほんのちょっと空を散歩できれば満足出来そうな気がした。
癒し手のように、人の役に立つ魔法ではないのだ。
ただ魔法使いであることの誇りを保てれば、それで良いのだ。
『ゴンが言ったみたいに、ここで働けたら……。』
お頭も、ウェルもいい人だった。
彼らなら、もしラップが魔法使いだと明かしても態度をひるがえしたりしないと思った。
「あ……」
ラップはあることに思い至って、思わず口に出してつぶやいた。
「でも、サンドラがいるんだ…。」
彼女はどうにも苦手だった。
ラップより数年年上なだけなのに、住む世界が、生きる考え方が違いすぎた。
『それに、僕のことをからかうし…。』
ハチミツを付けた細くて白い指先がパッと浮かび、無理やり舐められた手の平の感触がよみがえって、ラップは居心地の悪い気持ちになった。
『やっぱり嫌だ。』
サンドラの側には居たくない。
ラップは思い直して、寝返りを打った。
手の平をさすってみても、一度ざわめいた心はなかなか静まらなかった。

「親分、ボートはいつでも出せますぜ。」
人気のない桟橋で、ひそひそ声が言った。
「よーし。お坊ちゃんと女を連れて来るからな。そうしたら二人とも縛り上げて船に運んじまえ。」
物騒な命令を告げているのはグリムゾンだった。
「承知でさあ。」
返事と一緒に、柄の悪い笑い声が闇の中からいくつも起こった。
「じゃあ行って来る。ぬかるんじゃないぞ。」
グリムゾンはそう言うと、町へ向かって歩き出した。

何か、物音がした。
うつらうつらとしていたラップは、何処かから聞こえたその音で目を覚ました。
耳を澄ますと、人の話し声のようなものが聞こえる。
一階からだ。
『何だろう、こんな夜中に。』
そう思っていると、今度ははっきりと人の声とわかるものが聞こえた。
語勢が荒い。
男が二人、言い争っている声だ。
「う…ん。なに?」
デンがもぞもぞと起き出した。
「誰かが大声を出しているよ。」
ラップはデンに答えた。
デンはしばらく耳を澄ませた。
その間にも、隣の、あるいは向かいの部屋で、物音に気付いたらしい男たちの起きる気配がした。
「お頭みたいだ……。なんかあったのかな。」
デンはサッと布団から飛び出すと、部屋のドアを開けて廊下へ出た。
ラップも後に続いた。
「子どもは部屋にいろ。」
二人はいきなり鋭い口調でたしなめられた。
ちょうど、ウェルが足音を忍ばせて階下へ降りていくところだった。
警戒している様子だった。
「えー、おいらも行く!」
廊下へ歩き出そうとするデンを、ラップはあわてて止めた。
「静かに、デン。大人の言う事を聞こう。なんだか変だ。」
ラップは胸がドキドキと鳴り出すのを感じた。
盗賊でも入ってきたのかもしれない。

「デンー、どうしたの?」
二人の後ろで、目を覚ましたゴンがあくびをしながら起きてきた。
「お頭が誰かとケンカしているんだ。」
デンが端的に答えた。
「ええっ、誰と?!」
ゴンが興奮した声を上げる。
「わかんない。ウェルが子どもは部屋にいろって怒るんだ。」
「おいら見たいっ!」
ゴンが扉へ突進するのをラップはあわてて止めた。
扉を閉め、その前に立って二人に言い聞かせる。
「駄目だよ。ウェルさんたちも警戒していた。盗賊が入ったのかもしれない。危険だよ。」
「やだーっ!」
ゴンは聞き分けない。
ラップは身体を張って扉を死守した。
「きゃあああっ!」
甲高い悲鳴が響いたのはその時だった。
「えっ?!」
「姐さん!!」
「サンドラ姉ちゃん?」
三人は同時に叫び、顔を合わせた。
じっと耳を澄ませた。
しばらくは人の言い争う声しか聞こえなかった。
だがしばらくすると物音が聞こえた。
人の声、ぶつかる音、倒れる音…。
ラップはその中に混じって、風が空を切る音がするのを聞き分けた。
『魔法!』
昼間、去り際にデンとラップを睨みつけていたグリムゾンの姿を思い出した。
「おいらも行く!」
「おれも!!」
デンとゴンがラップを押しのけて扉を開こうとする。
「危険だよ、二人とも!」
ラップは本気で叫んで両手を広げ、二人を遮った。

昼間燃え盛っていた暖炉は今は灰ばかりになって、奥の方で燃え残りの木が赤く光っているだけだ。
ベッドサイドのランプ一つに落とした部屋は暗くて、暖炉の燃えさしすら明るく見えた。
夜半を回っていたが、サンドラは眠っていなかった。
それどころか、外出用の厚いコートを着、中にも動きやすいパンツスーツを着込んでいた。
靴もヒールではなく、踵のない歩きやすいものだ。
ベッドの上には小ぶりの旅行カバンが一つ置いてある。
『もうすぐ……』
サンドラはお気に入りの丸い椅子に腰掛けて、細く開いたカーテンの隙間から空を見上げた。
明るい星があの隙間から見える頃、エドガーが迎えに来てくれる。
『ごめんなさい、パパ。でもあたしは自由になりたいの。』
ずっと、不満だった。
この部屋から、家から外へ出ることを、父親に管理され続けてきた。
たぶんそれは幼い頃、サンドラの記憶にない母親の死別以来のことだった。
どんな事故だったのかサンドラは詳しいことを知らない。
馬か荷車か、その手合いの物に跳ね飛ばされたのだという。
突然妻を失った父親の気持ちはわかる気がする。
あとに残ったサンドラを危険に遭わせたくないと考えるのも尤もだろうとは思う。
でも息が詰まる。
小さい頃はわからなかった。
素敵なお部屋に住めて幸せだった。
旅のお土産をもらうのが楽しみだった。
だが、友だちが出来てから、恋焦がれる人が出来てから、同じ暮らしが苦痛に変わった。

エドガーは優しい人だった。
遊び人だから気をつけなさいと友だちは言ったが、そんな人ではなかった。
サンドラの美しさを褒めてくれた。服を選ぶセンスが良いと、喜んでくれた。
滅多に夜の社交場へ出てこられないサンドラの不満を、嫌な顔もせずに長い時間聞いてくれた。
彼ほど素敵な人はなかった。
けんかを吹っかけられても、彼や護衛のグリムゾンがひと睨みすれば場が収まった。
サンドラが帰らなくてはならない時間に、なかなか離してくれなかった。
もっと側にいたい。
ずっと一緒にいたい。
サンドラは想いを募らせた。

数日前のことだった。
夕方の早い時間に家を抜け出してきたサンドラは、酒場でエドガーから町を出ようと持ちかけられた。
「君がパパに気兼ねなく、もっと素直に甘えてくれるところへ住まないか?」
カウンターで抱き寄せられるように身体を寄せ合いエドガーが囁いたのは、サンドラが待ちかねていた言葉だった。
「エドガー…。でも、そんな、貴方までテュエールを出るというの?」
幸福に舞い上がる心を抑えられず、サンドラの声は上ずった。
「君のそばが僕の天国だよ、サンドラ。」
エドガーの囁きは、今思い出しても顔が火照る。
サンドラは大きく深呼吸をした。
ふと見上げると、カーテンの隙間に白く光る明るい星が見えていた。
サンドラは立ち上がった。
戸締りされた屋敷は外から入れない。
頃合いを見計らって、サンドラが自分で外へ出る手筈になっていた。
旅行カバンを持ち上げ、サンドラは自室の扉を開いた。

通りに面した大きな扉は、金物の頑丈な鍵が使われていた。
これはサンドラにはいかんともし難かった。
サンドラが抜け出すのに使ったのは、建物の奥にある賄いの女性たちが出入りする扉だった。
そこは持ち手の下に掛け金式の鍵が付けてあるだけで、誰でもはずすことが出来るのだ。
明かりを付けない闇の中だったが、生まれ育った家だ。
サンドラは目当ての扉を見つけて手探りで鍵をはずした。
扉を開くと、キィーときしむ音がした。
家の中に響かないかとドキドキしながら、サンドラは扉から顔を覗かせた。
「エドガー? 来ている?」
小さな声で愛しい人を呼ぶ。
しばらくしてから、足音が近寄ってきた。
明かりは持っていない。
「サンドラ? 待たせたかい?」
エドガーの声だった。
「全然、待ってなんかいないわ。」
サンドラはホッとした。
「急ごう。」
エドガーはサンドラの手をとって引いた。
「あ、待って。荷物のカバンが。」
サンドラは足元に置いた旅行カバンを手探りで探した。
数回、手が暗闇の中を空振りした。
「やだ、どこ。」
サンドラが慌ててしゃがみ込むと、足に当たったカバンが大きな音を立てて倒れた。
「何してる、サンドラ。」
しびれを切らせたエドガーが扉の中を覗き込んだ。

「うちの娘に何をしている!」
突然、大声と共に男がエドガーに飛び掛かった。
「うわっ」
エドガーはとっさの事に逃げられず、男…サンドラの父親に捕まった。
「離せっ!」
もがいても、逃れられなかった。
「夜遊びの次は夜這いか!? このろくでなしめ!」
「パ…パパ?!」
サンドラはその場に立ち竦んだ。
暗くてはっきりわからないが、まさしく父親の声だ。
どうしてここにいるのだろう。
何故出て行く事がわかったのだろう。
「どこのどいつだ、お前は。逃がさんぞ。」
父親はエドガーを部屋の奥へ引っ張り込もうとした。
「駄目よ、パパ!」
サンドラはハッとして、父親をエドガーから引き離そうとかじりついた。
まだ誰なのか気付かれていない。
サンドラさえ口をつぐんでいれば、エドガーが見つかることはない。
「くそっ!」
エドガーも焦った。
ズボンのポケットから折り畳み式のナイフを出すと、自分を羽交い絞めにしている男に向けて、それを何度も突き立てた。
「うぐああっ!」
叫び声が上がり、腕が緩んだ。
「きゃあああっ!」
サンドラも悲鳴を上げた。
エドガーが男を振りほどくと、男の身体は音を立てて床に崩れ落ちた。
「痛いっ、痛いっっ!」
サンドラは顔を押さえて悲鳴を上げた。
滅多やたらに振り回されたエドガーのナイフが、サンドラの顔に傷を負わせたのだ。
エドガーが暗闇の中へ向かって叫んだ。
「静かにしろ、サンドラ。見つからないように出て来いって言っただろう!」
それは、先程までの優しい声音ではなかった。
サンドラは動転した。
「話が違うじゃない! パパを刺すなんて! 何てことするの? ああっ、パパ、パパ! しっかりして!」
サンドラは顔を押さえたまま、倒れた父親に駆け寄った。

「お嬢さん?! どうしたんですか!」
どやどやと男たちがやって来た。
明かりを持っている者もいる。
「しまった。」
エドガーは外へ逃げ出そうとしたが、動転して肝心の扉を見失い、むやみに壁を叩いた。
「お頭っ?! しっかりしてください!」
ウェルが倒れているお頭に気付いて駆け寄った。
後から来た男が部屋のランプに明かりを点した。
エドガーは明かりから顔をそむけたが、たちまち捕まってランプの下に引きずられていった。
「お前、トンプソンの息子だな。」
男の一人に尋ねられて、エドガーは歯軋りをした。

「失敗しましたね、お坊ちゃん。」
その時ふわっと、男の背後にグリムゾンが現れた。
グリムゾンは手に持った棒で、エドガーを捕らえている男を一突きした。
「うぐっ…」
鈍い音を立てて、男は気を失った。
「お、俺じゃない。サンドラが見つかったんだ。」
自由になったエドガーは強気に弁解した。
「人を刺した上に顔を見られましたぜ。どうやって逃げ切るおつもりで? いかにトンプソン様でも、これはちょっと隠し切れないんじゃありませんかねえ。」
グリムゾンは絡みつくような猫撫で声でエドガーに言った。
「グリムゾン、何とか……」
エドガーは言いかけた。
「何とかしてくれ、ですかい?」
エドガーの言葉が終わるのを待たずに、グリムゾンは周りを取り囲んだ男たちに渦巻く風の魔法を浴びせた。
「うわっ!」
「ギャッ」
ある者は吹き飛ばされ、他の者は鋭い風に体を刻まれた。
部屋にいる全員が床にはいつくばったのを見届けて、グリムゾンはにやりと笑った。

「ようございますとも。ただし、高くつきますぜ。女だけじゃ足りません。お坊ちゃんにも体を張って働いていただきます。」
「働くって、どういうこと? …エドガー、私と駆け落ちしてくれるんでしょう? 」
サンドラが顔を上げてきつい声で問いただした。
「な…何を言っているんだ、グリムゾン。」
エドガーの声が焦って裏返った。
「何だそれは!」
グリムゾンはサンドラの顔を見て怒鳴った。
「顔に傷が!! こんなもん使い物になりゃしない。この馬鹿者、商品に傷をつけやがって!」
グリムゾンはエドガーに向かってわめきたてた。
「……商品……って。いやよ、うそでしょう!?」
サンドラもエドガーを責めた。
「砂漠の国のお姫様になりたいって、言ったじゃないか、サンドラ。」
エドガーは絞り出すような声で言った。
「僕は連れて行ってあげようとしたんだよ。グリムゾンが知っているんだ。砂漠の国にはお姫様のように暮らしている美しい女性がたくさんいるんだよ。」
エドガーの言葉を聞いて、グリムゾンはくっくっと笑った。
「美しいお城で、金持ちの客を待ち焦がれているお姫様たちだがね。」
「ひどい…、だましたのね。あたしを、だましたのね!」
サンドラは立ち上がってエドガーに詰め寄った。
「うそなの?! 全部うそなの? ねえ、エドガー!!」
エドガーは答えなかった。
「あああ……」
サンドラはエドガーの胸にこぶしを叩きつけると、嗚咽をかみ殺した。
「さあお嬢さん、もうお口を閉じる時間だよ。」
グリムゾンの声が耳元で聞こえて、背筋がゾクッと震えた。あわてて振り向くと、棒を目の高さに掲げたグリムゾンが目の前にいた。
「パパもお仲間も一緒にな。」
棒の先端から、何かの火花がバチバチと飛び跳ねた。
サンドラはヒッと息を呑んだ。

「待て!」
「やめろ!」
「やめて!」
背後で若い声が一斉に叫んだ。
じろりと振り返ったグリムゾンは、ラップとデン、それにゴンを見つけた。
男たちが倒れているのを見たせいか、三人とも蒼白な顔をしている。
「昼間のガキ共か。死にに来たのか。」
グリムゾンはサンドラに向けていた棒を三人に向け直した。
「ま、待て、何をする気だグリムゾン。」
エドガーがグリムゾンを止めた。
グリムゾンは顔をしかめた。
「後始末を頼んだのはお坊ちゃんでしょう? すぐ済みますぜ。」
グリムゾンはラップに狙いを定めると、雷の力を込めた魔法を放った。
大人でも痺れて倒れる魔法だ。
子どもには致命的だろう。
ほくそ笑んだグリムゾンは、一瞬後、自分の魔法が結界に遮られて飛び散るのを目の当たりにした。
大きい二人が、それぞれに結界を張っていた。
「兄ちゃん…。」
「デン、君も魔法使い…?」
二人は驚いて顔を見合わせ、あとの言葉が続かなかった。
先に立ち直ったのはラップの方だった。
「デン、他に魔法は?」
ラップはグリムゾンの動きに気持ちを集中させながら尋ねた。
「おいら、これしか出来ない。」
デンは首を振った。
「じゃあゴンを、出来れば皆も守ってて。」
「うん、わかった。」
デンはゴンの手を引いて後ろへ下がった。
「兄ちゃんも魔法使いなの?」
ゴンが無邪気に叫んだ。
「そうだ。大人しくしているんだよ。」
ラップは二人をかばうように前へ出た。
『気付かなかった…。デンがグリムゾンの打撃を受けても痛くなかったのは、とっさに防御していたからなんだ。』
グリムゾンの魔法力に気を取られて、デンの使った魔法がわからなかったのだ。

ラップは全身が稲妻を帯びているようにピリピリと音を立てはじめた気がした。
『今のは雷の魔法。さっきは風の魔法の音を聞いた。』
とすれば、ラップの魔法とグリムゾンの魔法は似た系統だ。
お互いに手の内を知っているようなものだ。
だがラップは魔法使い同士の本気の戦いを経験したことがない。
分が悪いかもしれないとラップは思った。

「お前魔法使いだったのか。ちょうどいい、こいつはあんたの仕業にさせてもらうぜ。 」
グリムゾンはカマイタチを繰り出した。
いくつもの風の刃がラップに向かってくる。
『人がたくさん倒れているっていうのに!』
ラップはカマイタチを避けるのではなく、別の風の流れを差し向けて刃を四散させた。
「むう…。」
ラップの戦い方を見て、グリムゾンは眉を寄せた。
「やるじゃないか小僧。」
「夜中に他人の家を襲撃する人から褒められても、嬉しくないよ。」
ラップはそっけない返事をした。
「言いやがる。後悔するな!」
再び、カマイタチが襲ってきた。
今度はラップの左右から、同じタイミングで迫ってくる。
前か後ろへ逃げればかわせるが、そんな単純な手を使ってくるとは思えなかった。
ラップはその場で自分の周りに風の壁を巡らせた。
左右からの一撃は壁に遮られて消えた。
果たして、その直後に今度は前と後ろから鋭い風の刃が襲ってきた。
「はっ!」
ラップは刃を受ける直前に跳んだ。
「いかづち!」
グリムゾンを目掛けて、両方の手から雷球を飛ばした。
雷光がきらめく直前、黒い影が横合いに飛びすさった。
『逃げた!』
ラップは着地すると影の飛んだ方向に目を走らせた。
真っ赤な炎の玉がラップを目掛けて飛んでくる。
「バカな!」
ラップは風の勢いで炎を地面に叩きつけた。
「ここは家の中だ! 燃え広がったらどうするんだ!」
ラップは叫んでグリムゾンの姿を探した。
いた。
ラップの斜め後ろで棒を構えている。
獲物を狙う獣の目つきだった。
カマイタチが怪我を負わせるとか、炎が火事になるとか、そんな心配を全くしていない目つきだった。
「ちょうど良いじゃねえか、小僧。死人に口なし。燃えちまえば葬式もいらねえぜ。」
グリムゾンはニヤニヤと笑いながら言った。
「人でなし…。」
ラップは歯を強く噛み合わせた。

ラップは周囲に倒れている男たちを見やった。
お頭とウェルが重なるように倒れている。
他の男たちも怪我をしたり、意識を失くしたりして床に転がっていた。
デンが、ゴンをかばいながら横たわっている男たちを揺さぶっていた。
『無茶をするなよ、デン。』
もし心で話ができるならそう言いたかった。
「余裕だな、小僧っ!」
「あっ!」
注意のそれた隙に、グリムゾンが迫ってきていた。
棒を頭上へ振りかざす。
とっさにラップは両手を顔前に出して結界を張った。
「へへっ、こっちだ!」
腕を高々と掲げたまま、グリムゾンはラップの足を思い切り払った。
「うわっ!」
ラップの体がどさっと倒れる。
グリムゾンはラップを蹴って仰向かせると、棒を喉元に押し当てようとした。
ラップは棒を掴んで押し退けようとした。
その両手がビリビリッと痺れて、ラップは手を引いた。
「魔法はそこそこだが、喧嘩慣れしてしてねえな、小僧。」
グリムゾンはラップの胸元に乗り上げ、押し付けた棒に体重を掛けた。
「うがあっ」
ラップはうめき声をあげた。
痛い。息が苦しい。
ラップは満身の力を込めて棒を押し上げようとした。
「いや、やめて!」
サンドラが叫んだ。
「兄ちゃんを離せ!」
デンも叫んだ。
グリムゾンは力を緩めない。
ラップは足をばたつかせたが、どうにもならなかった。

「やめろ、グリムゾン!」
ついにエドガーも叫んだ。
グリムゾンがじろっと主人を睨んだ。
「子どもまで手に掛けるなんて駄目だ。逃げよう。」
エドガーは言った。
「こいつらを生かしておけと?」
グリムゾンはラップを押さえつけたまま、部屋に横たわる男たちを一瞥した。
デンたちが起こして回ったお陰で、大半の者が意識を取り戻していた。
「それならあっしは一人で逃げさせていただきますぜ。後のことは全部お坊ちゃんに引き受けていただきます。」
「な、何だと!!」
エドガーは明らかに動揺した。
「自分も高飛びしたいなら、跡は奇麗に掃除させてくださいよ。それなら女も一緒に連れていってあげますぜ。」
グリムゾンはニヤニヤと笑いながら言った。

「余裕だね。」
苦しい息の下から、ラップはつぶやいた。
「なに?」
グリムゾンがラップを見下ろした。
「カマイタチ。」
ラップの唇がかすかな音を吐き出し、それと同時にグリムゾンの眼前に無数の小さな風の刃が現れた。
「ふん、悪あがきを…」
小さな風の刃は、それに似合わぬ鋭い風切り音をたてて一斉にグリムゾンの顔面を襲った。
そしてグリムゾンの肌を、唇を、目を容赦なく切り刻んだ。
「ひゃ…ぎゃあああ!」
グリムゾンは両手で顔を覆った。
ラップはグリムゾンを突き飛ばして自由を取り戻した。

「はあっ、はあ…。」
ラップは痛めつけられた喉元をさすった。
意識はグリムゾンに向けたままだ。
傍らにグリムゾンの持っていた棒が転がっていた。
また喉を押さえつけられてはたまらない。
ラップは棒を拾い上げた。
「ん?」
ラップは顔をしかめた。
それから棒を目の前に持ち上げてよく見た。
見た目にはただの棒切れだった。
だが、手に持った感触が普通の木のようではなかった。
まるで手に吸い付くように馴染む。
「小僧、そいつを返しな。」
顔面を傷だらけにしたグリムゾンがラップににじり寄った。
片方の目は開けていなかった。
ラップは飛び退いて後ろへ下がった。
グリムゾンの目はラップの手にある棒から離れなかった。
『もしかしたら…。』
ラップはグリムゾンの棒に自分の魔法を送り込んでみた。
予想通りだった。
棒はすんなりと魔法を受け入れた。
『これは魔法使いの杖だ。』
書物で読んだ魔法使いは、殆どがこういう杖を持っていた。
だが癒しの館では素手で魔法を扱っていたので、ラップはこれまで杖を持った事がなかった。
『もし本で読んだ通りの性能なら、魔法の助けになるはずだ。』
杖は持ち主の魔法の正確さを補い強さを増幅してくれる。
逆に、杖を失うと魔法は術者の力量分だけに弱まってしまう。

グリムゾンが雷の玉を放ってきた。
ラップは棒を使って、全ての攻撃を跳ね返した。
そう、言葉通り返したのだ。
雷の玉は強さはそのままにグリムゾンを攻撃した。
グリムゾンは必死の形相で逃げ回った。
「すごい物だね、これ。」
ラップは棒を剣のように構えて言った。
素手で同じ事をするよりもずっと正確に、思い通りに魔法を扱うことができた。
『こんな物があるなんて。』
ラップはただの棒切れに見えるその杖に、愛着さえ覚えた。

「年貢の納め時だ、グリムゾン。おとなしく捕まれ。」
事態を見守っていたウェルが言った。
その言葉を聞いて、動ける男たちが立ちあがった。
「くそっ。」
グリムゾンは悪態をつき、地団駄をふんだ。
だがどうにもならなかった。
グリムゾンの魔法を補っていた杖はラップの手に渡った。
先程まで均衡していた二人の魔法力は、今ははっきりとラップに分があった。

部屋の隅で、エドガーはちらちらと扉の方をうかがった。
誰もがグリムゾンに注目していた。
今なら逃げられそうだった。
エドガーはサンドラの腕を掴むと、強引に引っ張って扉へ突進した。
「いや! 何するの!」
サンドラの叫びに、部屋中の視線が集まった。
サンドラは引きずられながら助けを呼んだ。
「ウェル、デン、助けて!」
「お嬢さん!」
ウェルが後を追い掛けた。
だが、ウェルよりも早く、黒い影がエドガーに迫った。
「あっしを見放しましたね、お坊ちゃん。」
ゾッとするような低い声がエドガーを呼んだ。
グリムゾンだった。
その両手にバキバキと氷の槍が出来ていく。
「よ、よせ!」
エドガーは慌ててかぶりを振った。
「やめろ!」
ラップも後ろから駆けつけて叫んだ。
グリムゾンは振り向きざまに、氷の槍を放ってきた。
「うわっ。」
ウェルもラップも、一瞬足を止められた。
グリムゾンはすぐに向き直ると、エドガーとサンドラを壁際に追い詰めた。
「やめてくれ…」
「助けて、助けて!」
サンドラが泣きそうな声で叫んだ。
グリムゾンが片手を大きく振った。
「お嬢さんっ!!」
ウェルが大声を張り上げた。
「やめろおおおっっ!」
ラップはグリムゾンに突進したが、間に合わなかった。
間近で放たれた氷の槍が、サンドラとエドガーを容赦なく貫いた。
「きゃあああっ」
二人の悲鳴が耳をつんざいた。
後ろでゴンが怯えて泣き出した。
体にいくつも氷の槍がささったサンドラが、エドガーが、力を失って床に倒れた。
ラップは手に持った棒に力を込めた。
氷を溶かす、炎の力を込めた。
「食らえっ!」
叫びながら、ラップは満身の力を込めてグリムゾンに火の玉を放った。

魔法を放った瞬間、ラップはガクッと膝を折った。
「えっ…」
急に身体中の力が抜けて、とてつもない疲労感が襲ってきた。
『何故?』
ラップは倒れそうになったが、かろうじて踏みとどまって顔を上げた。
一瞬で答えは出た。
目の前に人の背丈ほどもある炎が渦巻き、グリムゾンを飲み込んでいた。
「ひっ…!」
ラップは息を呑んだ。
背筋が凍った。
「あ…あああ……」
ラップは無意識に、炎と部屋にいる人たちの間に結界を張った。
その直後、グリムゾンの断末魔の悲鳴が響き渡った。
辺りに焦げた肉の臭いが漂った。
ラップは膝をついて体を二つに折り、こみ上げる吐き気に耐えた。
『僕がやった…? 僕の魔法が?!』
ラップは床を見つめたまま、混乱した。
肩で大きく呼吸をしても、まだ息が苦しかった。
胸を掴もうとして、手に魔法の杖を握っていることに気付いて、ラップは怖いものを放り出すように杖を投げ捨てた。
その拍子に部屋の様子が目に入った。
部屋はぞっとする光景に変わっていた。
渦巻く炎は結界と相殺して四散し、あちこちに小さく飛び火していた。
黒く焼け焦げた床の上に、同じくらいに焼けてしまったグリムゾンの遺体が転がっていた。
真っ黒な指にいくつもの指輪が、炎を照り返していた。

「お嬢さんっ! 」
ウェルが我に返って叫んだ。
壁際に倒れたサンドラとエドガーはピクリとも動かなかった。
二人に覆いかぶさるように、デンが両手を広げて倒れていた。
男たちが駆け寄ってデンをそっと抱え起こした。
頬をパチパチと叩いて体を揺さぶった。
「デン! しっかりしろ!」
「起きて、デン!」
ゴンも必死に叫んだ。
ラップもふらつく足を踏ん張って立ち上がった。
よろめきながら皆の側へ歩み寄ると、ウェルたちがぎょっとした顔でラップを見た。
「く、来るな!」
一人が叫んだ。
「!?」
ラップは足を止めた。
一瞬、何を言われているのかわからなかった。
「側へ来るなっ、化け物め!」
ウェルが言った。
ラップの頭からサーッと血の気が引いた。
何か言い返そうとしても、声も、言葉も何も出てこなかった。
ラップは数歩、前に出た。
「いやああああっ!」
ゴンが怯えて飛び上がってウェルの後ろに逃げ隠れた。
ラップは立ちすくんだ。
殺すつもりでした事ではないと言いたかった。
だがグリムゾンの命を奪ってしまった事は事実だ。
ラップが人を殺すだけの力を持っていたことも事実だ。
そして、その力を抑えなかったこともまた、事実だった。

炎の勢いが強くなってきた。
「火が回るぞ。お嬢さんとお頭を運び出すんだ。」
ウェルたちは力を合わせてお頭とサンドラの遺体を外へ運んでいった。
それから気絶したデンと、エドガーの遺体も。
その間、ラップは近寄ることもできずに立っているしかなかった。
「ウェルさん。」
ラップは出て行こうとするウェルに思い切って声を掛けた。
ウェルは険しい顔をして振り向いた。
「ラップ、お前はグリムゾンと同じだ。俺たちの暮らしの中へ入ってくるな。」
ウェルの言葉は冷たかった。
「違う! 違います…。」
ラップは激しく首を振った。
この人たちなら受け入れてくれるだろうと期待を抱かせてくれた陽気さは、今のウェルのどこにもなかった。
「何が違う。グリムゾンはお嬢さんを殺した。お前はグリムゾンを殺した。同じ人殺しだ! 魔法使いだ!」
「う…。」
ラップは歯を食いしばった。
違うと言えなかった。
苦しくて、悲しくて、悔しかった。
「だがお頭のために戦ってくれたな。」
ウェルが言った。
ラップは一筋の光明を見たようにウェルを見つめた。
「町の警備兵には、お前の事は言わないでおいてやる。」
そう言い残すと、ウェルは外へ出て行った。

ラップは体を支える力も抜けて床に尻をついた。
今になって涙が溢れ出してきた。
ラップは両腕で体をかき抱いた。
ガタガタと音を立てんばかりに全身が震えていた。
『僕は、お尋ね者になるのか?』
何人もが一部始終を見ていた。
ウェルが黙っていてくれても、人の口に扉を付けられるものではない。
ラップが魔法でグリムゾンを倒したことは、人々の間に噂で広まるだろう。
もうテュエールには居られないとラップは悟った。

パチパチと火のはぜる音が大きくなった。
ラップはゆらりと立ち上がった。
行く当てなどない。
「遠くへ…。」
ラップは声に出してつぶやいた。
脳裏にサンドラの言った言葉がよみがえった。
『あたしは遠くへ行きたいの。』
新たな涙がまた頬を伝った。
彼女は行ってしまった。
簡単に後を追えない遠くへ行ってしまった。

ラップはぎゅっと目を瞑り、天を仰いだ。
「遠くへ行きたい! 誰も追いかけて来られないくらい、遠くへ行きたい!」
ラップは腹の底から叫んだ。
ふわっと体が浮きあがった。
空に向かって引っ張られるような力が生まれていた。
ラップは我知らず発動させたその魔法に身を委ねた。

 

(2010/1/15)