ミッシェル・ド・ラップ・ヘブン捏造企画|Junkkits

ヘブン

01

どれくらいの間空に漂っていたのだろう。
不意に大地に引かれはじめ、ラップは木に突っ込み、枝にぶつかって跳ね飛ばされ、あちこちを痛打して地面に転がり落ちた。
地面に体を投げ出したまま動けなかった。
体のあちこちが痛んだ。
目を開けるのさえ面倒に感じた。
あたりは森のようだ。
木々のざわめきが頭上一面に広がる以外、何の音もなかった。
シンと冷えた夜の寒さが、ゆっくりと体の中へ染み込んできた。
このまま大地に身をゆだねているのは命に関わる。
ラップは危険を意識したものの体を起こせなかった。
抑制なしに放出した魔法で疲労していたし、空を飛んだことで更に魔法力と体力を削っていた。

じっと横たわっていたラップは、そのうち妙な充足感が体に宿っていることに気が付いた。
それは初めて己の魔力を出し切ったことの、達成感にも似たものだった。
ラップの体の中で、何かがこの結果に満足していた。
この感触は恐ろしいとラップは思った。
目の前で一人の魔法使いの命を奪ってしまったのに。
取り返しの付かない事をして張り裂けそうな気持ちでいるのに、体のどこかが満足している。
こんなことがあってはいけないとラップは思った。
こんな恐ろしい獣を自分の体内に住まわせてはいけない。
『でも……』
どうしたら追い出せるのだろう。
この充足感は魔法を駆使したことで得られたものだ。
魔法を否定することは、ラップ自身を否定することに等しかった。
それは出来なかった。
魔法使いとしての生き方を捨てたら、それこそラップには何も残らない。
普通の人々に紛れ込んで生きることをウェルに否定されたばかりだった。
人としても魔法使いとしても生きられなかったら、他にどんな道があるというのだろう。
それとも、もうどこにも道はないのだろうか。
胸が痛んだ。

ラップは声もなく涙をこぼした。
考えるのに疲れていた。
疲労した体も休息を求めている。
このまま冷え切った大地に身を任せたら、きっと、サンドラの後を追える。
その方が良いんじゃないかと、ラップはぼんやりと思った。
人を殺した罪の意識。
それにもかかわらず満足を覚えていること。
こんな相反した気持ちを抱えたまま、人々の噂にのぼり、隠れるように生きていく。
それは考えるだけでも恐ろしいことだった。
『もう僕に、生きている資格なんてないんだ。』
冷たい涙が止まることなく頬を伝った。
ラップは考えるのをやめた。
押し寄せる疲労感を受け入れて四肢の力を抜いた。
ただただ、眠りたかった。

ふと、気配を感じた。
何だろうといぶかしむ間もなく、突然濡れたものが顔に押し付けられた。
ザラリとして、熱い。
獣の臭いがした。
ラップは目を開けた。
間近に獣の顔があって、ラップの顔を舐めていた。
「うわぁっ。」
とっさに横へ転がり、離れた所で起きて身構える。
冷たく固まっていた筋肉が、急に動いたことで痛んだ。
それ以上にラップは自分の反応に驚いた。
危険を感じて本能でそれを避けた。
今の今まで、生きることを放棄しようとしていたのに。
「は、ははは…。」
ラップは自嘲気味に笑った。
「死にたくないんだ、僕は。死にたくなんか……。」
目尻が熱い。
胸の鼓動が全身に熱い血を送っていた。
新しく込み上げた熱い涙を、ラップはこぶしで拭った。

低いうなり声がした。
ラップは目の前の獣を見つめた。
暗くてよく分からないが、大きい。
獣はラップに挑みかかるように突進してきた。
ラップは横っ飛びに飛んで獣をかわした。
獣はあきらめない様子で、何度もラップに向かってきた。
ラップは右に左に獣をかわし続けた。
獣は牛か鹿の仲間のようだった。
頭部に一対の太くて立派な角を生やしていた。
しかし獣は、ラップを倒そうとは思っていないようだった。
突進してくるものの、前足を振り上げて攻撃したりはしなかった。
頭を下げて、角の先をラップに向けることもしなかった。
『もしかして、僕を動かしてくれているのか?』
動物にそんな知恵があるかどうかは疑問だったが、ラップにはそう思えてならなかった。
大地の冷気に同化しかけていた手や足は、動き回ることで血が巡るようになって、一層なめらかに動いた。
夜が明けるまで、獣との単調な戦いは続いた。
ラップは何度も転んで無防備になってしまったが、そんなときにも獣は襲ってこなかった。
『逃げ出した家畜だろうか。人が恋しいのかな。』
ラップはそんな風に考えた。

日の出を迎えて、ラップはやっと周囲と獣の様子を知ることが出来た。
獣は大型の牛のようだった。
立派な角を生やした雄だった。
獣もラップの姿を見たのだろう。
やっと突進してこなくなった。

ラップたちは低い丘の頂近くにいた。
ラップは頂上を目指して登り始めた。
獣はどうしたものかと立ち止まっていたが、そのうちラップを追って登ってきた。
開けた場所に出ると、ラップは周囲を見渡した。
テュエールの町は見えなかった。
それどころか、海すら見えなかった。
辺りは木々に覆われていた。
「どこだろう、ここは。」
ラップは困惑してつぶやいた。
空を飛んだ時間はどれくらい長かっただろうか。
『街道から遠く離れてしまったみたいだ。』
迷子になったようで心細かった。
しかし、ラップは事態を良い方へ考えようとした。
「もしお尋ね者になったとしても、すぐにこんな所まで追って来れないさ。」
それはあまり嬉しい考えではなかったが、とりあえずラップは落ち着くことが出来た。

ラップは日の当たる場所に腰を下ろした。
風もなく暖かな一日になりそうだった。
座り込むと、さすがに疲労しているのを実感した。
ろくに眠っていないし、夜通し立って歩いていたのだ。
獣が側に寄ってきて、ラップのすぐ脇に座り込んだ。
ラップはさすがに緊張して獣を観察した。
丸い大きな目は何を考えているのか分からない。
立派な角は側で見ると先端が尖っていて、縄張りや雌を勝ち取るために大層役立ちそうだった。
獣は前足を折り畳んで眠る様子を見せた。
ラップは恐る恐る獣の体に背中を預けた。
一晩中歩かせられたのだから、温もりを分けてもらっても良いだろうと思った。
むっとする臭いがした。
それから背中にじんわりと温かさが伝わってきた。
ラップの体から徐々に緊張感が抜けていった。
不思議な獣にもたれながら、ラップは深い眠りに落ちていった。

一眠りして目を覚ますと、予想通りの暖かな日差しが空の高みから差していた。
冬の終わりというよりも春の始まりのような暖かさだった。
『助かった…こともないか。』
ラップはホッと息をついたものの、すぐに夜の寒さを思い出して首を振った。
日が傾くまでに、洞窟でも木の洞でも、岩の隙間でもいい、寒さを避けられる場所を見つけなくてはならない。
心に抱えた重いものは、まず命の心配が片付いてから取り出そう。
そう自分に言い聞かせて、ラップは立ち上がった。

ラップはもう一度周囲の森を見渡した。
特に人の作った物、屋根や見張りやぐらが見えないかと目を凝らした。
そういうものは見当たらなかった。
安心したような、がっかりしたような気持ちでラップはため息をついた。
獣はその間に立ち上がり、時折地面の草を食みながらゆっくりと下り始めた。
ラップは急に空腹を覚えた。
『牛はいいな。どこにも食べる草があって。』
こんな見知らぬ場所で簡単に食べ物が見つかるとは思えなかった。
気は進まなかったが、なるべく早く人里を見つけなくてはならない。
働いて糧を得なくては。

ラップは獣と一緒に丘を下り、平坦な森林を歩いた。
森の様子は冬の住処にしていたテュエールの洞窟の辺りとは少し違った。
背が高く、細い葉を付けたままの木が目に付いた。
いくらか寒い地方に来てしまったように見える。
森の中で食べ物を調達できる可能性は、さらに少なくなってしまった。
獣が不意に立ち止まった。
ラップは前方を注意して見たが何も変化は感じなかった。
獣は一度体をブルッと震わせた。
そして体の向きを変えると、やって来た方向へ走りだした。
「あ!」
獣の姿はたちまち見えなくなってしまった。
ラップはしばらくその場に立ち止まっていたが、獣が戻ってくる様子はなかった。
ラップは待つのをやめて行く手を見据えた。
『この先に、何かあるんだろうか。』
不安はあったが、獣と同じように逃げ出しても深い森が待っているだけだ。
この先にあるものが自分にとって危険でないよう祈りながら、ラップは先へ進んだ。

少し歩くと、木立が途切れて日の差し込んでいる空き地に出た。
ラップはそこに水の細い流れを見つけた。
駆け寄って手の平ですくって飲む。
冷たい。そしてとても美味しかった。
ラップは夢中になって水を飲んだ。

「そこにいるのは人か、それとも人に化けた魔獣かな。」
突然声を掛けられて、ラップはぎょっとした。
顔を上げると、空き地のはずれに壮年の男が立っていた。
ラップは身構えた。
『まさか、テュエールの警備兵じゃ…。』
腰を浮かして、いつでも逃げられる姿勢をとった。
胸がドキドキした。
落ち着いて見ると、男は胸当ても兜も付けていない。
手に持っているのは剣でも槍でもなかった。
『あれは…。』
ラップは男の得物に目を奪われた。
背丈ほどもある一本の杖。明らかに魔法使いが持つ品だ。
先端は太く、瘤のようにごつごつしていて、地面に近いほど細くなっている。

「聞こえないのか。君は誰だね?」
男が再び誰何した。
ラップは我に返った。
「僕は魔法使いです。」
ラップは答えた。
「…人なのか魔獣なのか、分かりません。」
そう言い足したのは今のラップの正直な気持ちだった。
「魔法使いなら人間だ。魔獣ではなかろう。」
ラップの返事を聞いてその魔法使いは声を上げて笑った。
冗談を言ったと思ったのだろう。
ラップには笑い事ではなかった。
ラップは口を真っ直ぐに結んで男を見返した。
「ふむ。」
ラップの様子を伺って、男は眉を寄せた。
男は手に持った杖で地面をトンと叩いた。
次の瞬間には、男はラップの目の前に立っていた。
「あ!」
ラップは驚いて後ろへ退いた。
「昨夜転移してきたのは君だね?」
男は尋ねた。
ラップは頷きかけてハッとした。
「転移?」
ラップが聞き返すと男は頷いた。
「森の上に突然現れただろう。瞑想をしていて君の気配を感じたのだ。どんなに年季の入った魔道師かと来てみたが、まさか子どもとはな。転移魔法はどこで習った。アンビッシュか?」
男は問いただすような口調で立て続けに聞いてきた。
ラップは首を横に振った。
男の尋ねることは、ラップがすぐに理解出来ない言葉が多すぎた。
だがひとつだけは確実だった。
この人は、魔法使いだ。
「転移魔法の呪文は本で読んで知っていますが、一度も使ったことはありません。」
ラップはとりあえず答えられることに答えた。
「本? 読んだだけで使えたと言うのかね。」
男は大げさに眉を上げた。
「僕は飛んできたと思っていました。」
ラップは戸惑いながら答えた。

「ふーむ。」
男はそこで改めてじっくりとラップを眺めた。
「君とはじっくり話をしてみたいな。一緒に来ないか。」
「え、あの…。」
ラップはあいまいな返事をした。
こんな場所で魔法使いに会ったのは幸運としか言いようがない。
だが、ラップと関わることでこの人に迷惑が掛からないだろうか。
「おっと、そうか。自己紹介をしていなかったな。私はモーリス。見ての通りの魔道師だ。シフールの外れにあるシャリネに居候している。」
ラップの迷いを感じ取って、モーリスは自分のことを話した。
「シフール? シフールですって!?」
ラップは驚いて叫んだ。
想像もしていなかった。
ここがシフールなら、テュエールの隣の国まで飛んだことになる。
いくら空を飛んだとしても、一晩のうちに他の国まで移動するとは考えられない。
それならこの男の言う通り、ラップは空間転移に成功したのかも知れなかった。
「そうだ。今から戻れば日暮れまでにシャリネへ着けるだろう。」
モーリスは重ねてラップを招いた。
隣の国から今日や明日に噂が流れてくることはないだろう。
ラップはそう考えて、モーリスについて行く事にした。

ラップは獣が去って行った方を振り返った。
獣の存在を示すようなものは何もなかった。
だがラップには、あの丸い瞳が一部始終を見てくれているような気がした。
『ありがとう。おかげで生き延びたよ。』
ラップは心の中で獣に礼を言った。

ラップは魔道師のモーリスに付いて山を下り、シフールの町から少し外れたところにあるシャリネに向かった。
「ところで、君は何と言う?」
歩きながらモーリスが聞いた。
ラップは返事に詰まった。
「どうした? 名前を持っていないか? 魔法使いにはそういう子どもも稀には居るが…。」
「すみません、言えません。」
ラップはモーリスに答えた。
「名乗れないのか。」
モーリスは眉をしかめた。
「迷惑を掛けることになるかも知れませんから。」
ラップは言い訳にもならない事を言った。
モーリスはラップを観察した。
悪事を生業にしている様子はないとモーリスは感じた。
本心を隠している者は、もっとふてぶてしい。
このようにおどおどした様子は見せないものだ。
だが、名乗れないという事は、何か簡単には言えない事情を抱えているのだろう。

ラップは立ち止まった。
「ご迷惑になるのなら、僕はこれで失礼します。」
決意を固めた表情でラップは告げた。
モーリスも足を止めた。
ラップの真剣な表情を見て、モーリスは自分の推測を信じることにした。
「いや、失礼した。無理に言うことはない。」
モーリスはそう答えた。
ラップが安堵するのを目におさめ、つかの間思案する。
「ヘブンでどうだ。」
モーリスは出し抜けに言った。
「は?」
ラップは目を丸くした。
「君をヘブンと呼んで構わないか? 名無しと呼ぶわけにもいくまい。」
モーリスは茶目っ気のある表情でラップに同意を求めた。
もとよりラップに異存はなかった。
「どうぞ、そうしてください。ご配慮に感謝します。」
ラップはそう答えた。

「ヘブン…。どういう意味の言葉でしょう?」
再び歩き始めて、ラップはモーリスに尋ねた。
「空の上だったかな。」
モーリスは記憶を探るように言った。
「空、ですか。」
ラップは思わず上空を見上げた。
「いや、空の上にある天、だったかな。神のいるという高みのことだ。」
モーリスも同じく空を見上げる。
「そんな大層な名前を頂いてしまって、良いのでしょうか。」
ラップが聞くとモーリスは豪快に笑った。
「空から落ちてきたんだ。君には似合いだ。」
「はあ……。」
真面目に考えてくれたのか、それとも冗談で付けたのか、判断できなくてラップはあいまいに笑った。
『空から落ちて来た少年、か。』
自分からこの名前を名乗ることはないだろうなと、ラップは思った。

「転移魔法を知っていると言っていたな。」
モーリスはラップに尋ねた。
「はい。」
ラップは頷いた。
「どこで魔法を教わったのだね?」
「癒しの館と呼ばれている所です。」
ラップは答えたが、モーリスには分からないことだったらしい。
「それはどこにある?」
モーリスは重ねて聞いてきた。
「チャノムの南部です。」
館の場所は説明しにくかったが、ラップはそれよりもモーリスに分かりやすい物があったことを思い出した。
「敷地の中にシャリネがあります。確かオルドスと呼ばれています。」
「ああ。五つ目のシャリネだな。そうか、そこで魔法を学んだのだね。」
モーリスは納得した顔になった。
ラップは久しぶりに館のことを思い出した。
皆元気で過ごしているだろうか。
老朽化したシャリネの建物はまだちゃんと建っているだろうか。
ルイスやエリザ、それにオズワルドたちの姿が思い浮かんだ。
『僕は罪を犯してしまった。皆に会わせる顔がないな。』
ラップの過ちを知ったら彼らはがっかりするだろう。
そう思うと胸が痛んだ。

 

(2010/1/31)

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