古式の巡礼

05

「坊主ども、ネガル島が見えてきたぞ。」
野太い声が甲板に響いた。
魚網を繕っていたラップとジャックは、その声でパッと顔を上げた。
「本当?!」
二人は立ち上がり、声を掛けた船首の船員のもとへ走り寄った。
船長は二人に気を止める様子もなく、前を見つめて舵輪を握っている。
船首にかじりつくように前方の海を見ると、船の進む方向にうっすらと大地が横たわっていた。
「あれが次のシャリネか。」
ジャックが声を上げる。
「もうじき到着だ。今のうちに降りる支度をしておけ。」
後ろから船長が声を掛けた。
「わかりました。」
二人は揃って振り向き、大声で答えた。

ラップとジャックがニーリへ着いてから、もうすでに十日が経とうとしていた。
ニーリから数日掛けて大陸の対岸へ到着した二人は、ネガル島へ向かう船を探し当てるのに、それから何日も掛かってしまったのだ。
やっと見つけたこの船は、沖合いで漁をする大型の船だった。
ネガル島へ行って欲しいと頼むと、船長は露骨に渋い顔をした。
定期船と違って、巡礼をしていると言っても歓迎されなかった。
「俺たち、力仕事でも手伝えます。お願いします!」
最後は拝み倒すようにして、二人は乗せてもらったのだ。
「船賃は要らん。だが片道だけだぞ、いいな。」
船長は念押しした。
そして、びっくりするくらいの船足で、二人を運んでくれたのだ。
二人は魚網を繕うのを手伝ったり、船倉の片づけをして働いた。
それらは慣れない仕事だったが、前に定期船で仕事を手伝っていたせいか、自然と作業に入っていくことができた。
定期船の船長は、こういった先々で遭遇する事柄を知っていて、定期船の仕事を手伝わせたかもしれない。ラップはそう思った。

「テグラのシャリネは少し奥にあると聞く。港の人に聞いてみるんだな。」
下船する際、船長が言った。
「ありがとう、船長さん。」
二人は船長と乗組員たちに礼を言った。
二人が町へ入っていくと、背後で鐘の音が聞こえた。先程の船が出港していくところだった。
「行っちまったなあ。」
ジャックは残念そうに言った。
「また次の船を捜すの、大変だろうな。」
「うん、そうだね。」
ラップも心の底から相槌を打った。

町へ入ると、辺りは昼間だというのに静かで、人の姿もまばらだった。
「あんまり繁盛してないな。」
ジャックが言った。
確かに今まで通ってきたラグーナやニーリは、港を使う客や、それ目当ての売店で賑わっていた。
それに比べると、このネガル島の港町は活気が感じられなかった。
「お客さんらしい人もいないね。」
ラップたち二人以外は皆、町の住人のように見えた。
二人は干した貝を炙って売っている屋台に近づいた。
「すいません、ちょっと聞きたいんですが。」
ラップが声を掛けると、店番の男があまり関心なさそうに二人を見た。
「テグラのシャリネというのはここから遠いんでしょうか?」
「シャリネ? ああ、あんたたち巡礼の人か。」
男は合点がいった様子で身を乗り出した。
「あっちに街道がある。あんたたちならそんなに時間も掛からないだろう。」
男は港に背を向けて指を差した。
「今から出発して、夜までにここへ戻ってこられますか?」
ラップは重ねて聞いた。
「余裕余裕、十分大丈夫だ。」
男は言った。
「よし、さっそく行こうぜ。」
ジャックが早くも浮き足立って言った。
「うん。おじさん、ありがとうございました。」
ラップたちは礼を言って街道へ向かった。

男は街道と言ったが、二人が見つけたのは街道と呼ぶのをためらうような細い道だった。
地面は踏み固められているものの、黄色く色付きはじめた雑草が勢い良く背を伸ばして道に覆いかぶさっている。
人の行き来は少なそうだ。
「ちゃんとこの先にシャリネがあるんだろうな。」
ジャックが不安そうに言った。それも尤もだとラップは思った。
しばらく進むと、開けた草地に出た。道が草にまぎれて分からなくなった。
「行き止まりみたいだぜ。」
ジャックが周囲を見回して言った。
ラップは辺りを歩き回り、北の方へ道筋がついているのを見つけた。
「ジャック、あったよ。」
地面を指し示す。
「お、よく気が付いたな。」
ジャックは新しく見つけた道へ進む。ラップも後に続いた。

しばらく行くとシャリネと思しき建物が見えてきた。頑丈な石造りだ。
入口の手前にも、平らな石を敷き詰めて道が作られていた。
建物の周囲は雑草が抜いてあり、手入れをされている様子が伺えた。
中へ入ると石が熱を通さないせいかひんやりとしていた。
人の気配はない。
まっすぐ進むと、祭壇があった。
「石の鏡だ……。」
祭壇の上には、ほぼ垂直に立て掛けられた、半円の大きな鏡がしつらえてあった。
少し手前に銀の短剣を捧げるための小さな祭壇があった。
「鏡って、場所によって違うんだな。」
ジャックが石の鏡に顔を近づけて言った。
表面はつるりとして、傷一つない。
「そうだね。全部違うんだろう。」
ラップは答えた。
シフールの鏡もオルドスの鏡もそれぞれ違う形だった。
イグニスの鏡は見たことがないが、きっとそれも別の形をしているのだろうと思われた。

「じゃあ、始めるか。」
ジャックが銀の短剣を取り出した。
「ああ。」
ラップはジャックの横に並んで立った。
ジャックが祭壇の上に銀の短剣をそっと置く。
ディーネのシャリネと同じように、銀の短剣と鏡の魔法がお互いに影響しあって、室内は魔法の力に満たされた。

真っ暗な場所に、真鍮の大きな燭台が置かれていた。
ろうそくを刺す針が真ん中に一本と左右の枝にそれぞれ三本立っている。
火は二箇所しか灯っていなかった。
『なんだろう、これは。』
ラップは心の中に疑問が渦巻くのを必死に抑えた。
今はありのまま、見たままを記憶しようと努力した。
風が吹いて火を揺らし、消した。
入れ替わりに、正面と両脇に明かりが見えた。振り返ると、後ろにももう一つ。
全部で四つの燭台には、それぞれ違う位置に火が灯されていた。
しばらくすると、パパパパッと立て続けに火が消えた。
一瞬、月明かりが差し込み、窓を背に燭台のシルエットを浮かび上がらせた。
辺りはまた真っ暗に戻った。
ポトンと水の滴る音がした。
目を凝らすと、目の前に池のようなものが見えた。
洞窟の中だろうか。ごつごつとした岩の壁も見える。
水はまるで泥のように茶色く濁っていた。
ふと気付くとラップはその池に立っていた。
足元を見ると、膝の下辺りまで泥水に浸かっていた。
『これは一体……。』
見たことも聞いたこともないものばかりだった。
映像が薄れてシャリネの鏡が見えたとき、ラップは心からホッとした。

二人は港町へ戻ることにした。
シャリネで見たものについては話さなかった。
一体何を見たのか、ラップにはどう考えても答えが見つからなかった。
「あれ?」
草原を歩いていると、ジャックが足を止めた。
「今、声が聞こえなかったか?」
「え?」
シャリネで見た映像を思い返していたラップは、立ち止まって耳を澄ませた。
「誰か、助けてー!」
甲高い声が遠くの方から聞こえた。
「こっちだ。」
ジャックが道をそれて、岩場の方へ向かった。ラップも後に続く。
「おーい、どこにいるんだー。」
呼びかけると、足元の方から返事があった。
「中よ! 洞窟の中!」
二人は岩場の前に茂る草を掻き分けた。
「あ、穴が開いてる。」
ラップが声を上げた。しゃがんで通れるくらいの入口があった。
二人は中に入った。

ピシャっと足元が鳴った。
「濡れてる。足元に気をつけて。」
ラップはジャックに言った。
「岩がゴツゴツしてるな。転ぶなよ、ミッシェル。」
「こっちよー。」
外にいたときより大きい声がした。女性の声だ。
奥の方に明かりが見えた。声はそこから聞こえてくる。
「今行くからな。」
ジャックは奥に向かって言った。
入口からは殆ど明かりが入ってこない。足元はよく見えなかった。
数歩進むと水溜りに突っ込んで、足首まで水に浸かってしまった。
『まるで、さっき見た洞窟みたいだ。』
ラップはシャリネで見た泥水の池を思い出した。

明かりに近づくと、足を投げ出して座り込んでいる同年代くらいの少女がいた。
「ありがとう、助けに来てくれて。」
少女は涙声だ。
「な、なんだ、俺たちと変わんないくらいじゃないか。」
ジャックが彼らしくなく浮ついていた。
「転んだの?」
ラップは少女に尋ねた。少女は頷いた。
「足を痛めてしまったの。町外れには滅多に人が来ないから、困ってたのよ。」
「どこが痛いんだ?」
ジャックは明かりを持ち上げると、少女の足に近づけた。
「わ、すごく腫れてるぞ。」
後ろから覗き込むと、足首全体が膨れているのが見えた。
「明かりを持ってくれ。」
ジャックが振り向いて、ラップに明かりを寄越した。
「俺が負ぶってくよ。」
ジャックは少女の前に背中を向けてしゃがみ込んだ。
「あ、ありがとう。」
少女は足をかばいながらジャックの背中におぶわれた。

「二人とも、本当にありがとう。」
無事に洞窟から外へ出ると、少女は改めて二人に礼を言った。
「あたしデリアと言うの。あなたたちは?」
「俺はジャック。こいつはミッシェル。テグラのシャリネへ巡礼に来たんだ。」
ジャックが答えると、デリアは嬉しそうな声を上げた。
「そっか、巡礼の人なんだ。ねえ、あなたたち、良かったらうちの宿に泊まってくれない?」
「え? いや、俺たち先を急ぐから。」
ジャックが断わると、デリアは怪訝そうに言い返した。
「でも、ネルバ行きの船はあさっての朝までないわよ。」
「ええっ!」
ジャックもラップも、それを聞いて足を止めた。
2日も足止めされるのは予想外だった。
『それでもネルバへは定期船が出ているんだな。』
また漁師を訪ねて回るより、ずっと有り難いことだった。
「ちぇっ、そういうことなら……。いいよな、ミッシェル。」
ジャックは落胆した顔でラップを見た。
「構わないよ。」
ラップは答えた。
「わあ、ありがと!」
デリアは手を叩いて喜んだ。
「でも俺たち巡礼だから、お金は払えないけど、いいのか?」
ジャックが疑問に思ったらしく、デリアに確認した。
「知ってる。でも巡礼の人が泊まってくれたらパパが喜ぶから。」
デリアはきっぱりと言った。
「ふ~ん。で、どこなんだ、あんた……じゃなくって、えっと、デリアんとこの宿は。」
ジャックが聞くと、デリアはぶんぶんと首を振った。
「ごめん、まだ家には戻れないわ。この足を何とかしなきゃ。」
「こんなに腫れてると、何日か歩けそうにないね。」
ラップはデリアに言った。
「ううん、この町には秘密兵器がいるから大丈夫。ジャック、ダニエル診療所っていう看板のところへ行ってちょうだい。」
デリアがジャックに言った。

「……どれだよ、ミッシェル?」
町に入ると、ジャックが小声で聞いてきた。
一瞬きょとんとしたラップは、ジャックが字を読めないのだと気が付いた。
「あっちだ。四角い大きな看板のところ。」
ラップは無骨な木の看板が立っている建物を指差した。
「ありがとよ。」
ジャックはデリアを背負ったまま診療所に向かった。
「こんにちは。」
三人はジャックを先頭にして診療所へ入った。
「はい、いらっしゃい。」
そこはすぐに広い診察室になっていた。
寝台の前で丸椅子に座っっていた若い医者が声を掛けた。
「旅の人? 具合が悪いのかい?」
医者にしては気さくな印象だった。
「あ、いや、患者は俺じゃないです。」
「ダニエル先生、ちょっと足をくじいちゃった。」
ジャックの背中から、デリアがしおらしい声を出した。
「デリアか。見せてごらん。君、ここへ降ろして。」
医者は診察用の寝台をジャックに示した。
デリアが降ろされると、医者は手早く足首を診、しかめ面をした。
「ひどく腫れてる。動かすと痛むかい?」
「ええ。立ち上がれないの。」
医者は腫れた患部やその周辺を軽く叩いてデリアの反応を見た。
「添え木をして十日くらい置けば痛みも腫れも引くだろう。」
医者がそっけなく告げると、デリアは目を見開いた。
「そんなのダメ! 先生、すぐに歩けるようにして!」
「おい、無茶言うなよ。そんな怪我がすぐに治るわけないだろ。」
横からジャックが口を挟んだ。
「お願い先生、パパに心配掛けたくないの。」
デリアはジャックの言葉など耳に入っていないようだ。
医者をじっと見上げる。
医者も負けずにデリアを見下ろして言った。
「デリア、足に付いている苔は洞窟の中に生える種類だけど、なぜ君の痛めた足に付いているんだろうね?」
「えっ! えっと、それはそのぅ……。」
デリアはばつが悪そうに口ごもった。
「だーかーら、洞窟には行くなって言っているんだ。怪我をして周りに迷惑を掛けてまで薬草を摘まなくてもいいんだ、デリア。」
医者が強い口調でデリアを叱った。デリアが首をすくめた。
「ごめんなさい。」
「もう二度と洞窟へ入らないと約束しなさい。それなら治してあげよう。」
医者が言った。
「え、ええっ?」
ジャックは訳がわからずに、医者とデリアを交互に見つめている。
「約束します、先生。だから、治して。」
デリアが医者に言った。
「わかった。ちょっと待ちなさい。」
医者はチラッとジャックを見た。
「しばらくかかる。そこで見ているといい。」
ラップが突っ立っている方をあごで示す。
ジャックはわけが分からないという顔をしてラップの隣へ立った。

医者は大きな薬の瓶を取り出し、緑色の柔らかそうなペーストをたっぷりとデリアの足首に塗って布で覆った。
そして、デリアの正面の床に胡坐をかいて座ると、両手で布に覆われた患部を包み込んだ。
低く、音楽のようなつぶやきが医者の口から絶え間なく紡ぎ出された。
「なんだ、これ。」
ジャックが小さな声でラップに聞いた。
「癒しの……怪我を治す魔法だ。」
ラップは施術している医者を食い入るように見つめたまま、小声で答えた。
「へえ、すぐ歩けるようになるのか?」
ジャックは好奇心を隠さないで聞いた。気味悪がったりしていないことにラップは胸を撫で下ろした。
「多分ね。彼女が言った秘密兵器って、このことなんだ。」
ラップはまじまじと医者を見つめた。
魔法を治療に使うのは、館に居たときに見ただけだ。
こうして実際に町で治療をしているのを見るのは初めてだった。
『普通の人に混じって暮らしている魔法使いがいるんだ。』
癒し手だからこそ出来るのだろう。人の役にたつ能力だからこそ。
治療を施している医者を見ているうちに、ラップはなんだかこの医者に親近感を覚えていた。

「よし。デリア、立ってみて。」
十分以上もそうしていただろうか。やっと医者がつぶやくのを止めた。
「はい、先生。」
デリアはそっと痛めた足を床におろした。そろそろと立ち上がる。
「痛みはある?」
「ううん。大丈夫です。」
デリアは痛んだ足に重心を置いて様子を見、それから慎重に歩き出した。
「うわ、歩けるんだ。」
ジャックが驚いた様子でデリアを見た。
「ふふ、すごいでしょ。先生のおかげで皆助かっているの。」
デリアが言うと、医者も満足そうに頷いた。
デリアを座らせて、足首を覆っていた布と一緒に緑色のものを拭い取る。
パンパンに腫れていた足首は、全く目立たなくなっていた。
「出来る限りの処置をするのが俺の信条でね。まあ、この子みたいに自分の失敗をごまかすのは本意じゃないんだけどもね。」
「ごまかしてないわ。あたしだって精一杯自分の仕事をしたんだもん。あっ!」
デリアは急に慌てて診療所の外をうかがった。
「どうした?」
ジャックが聞いた。
ちょうどそのとき、二人の後ろのドアが開いて、人が入ってきた。

「ただいま。あれ、患者さん?」
入ってきたのは黒く日焼けした体格のいい男だった。ラップたちの横を通るとき、潮と魚の匂いがした。
「お帰りアロン。デリアが洞窟へ入っちゃってね。足を挫いたんだ。」
医者は困った奴だという風に肩をすくめて見せた。
「なんだって。本当なのかい、デリア。」
アロンと呼ばれた男は、デリアにつかつかと近づいて言った。
デリアが居心地の悪そうな表情で頷いた。
「歩けるようにしておいた。薬草についてはこちらにも責任があるからな。」
医者が言うと、男は険しい顔でデリアに言った。
「二度と危険な場所へ入ってはいけないぞ、デリア。」
「はい、アロンさん。ごめんなさい。」
デリアは小さな声で答えた。
「ところでデリア、今日は買い付けは無しか? 港は賑わってるぞ。」
「ああっ、やっぱり過ぎてたのね、市場の時間! あたし、行かなくちゃ!」
デリアはさっきまで歩けなかったのが嘘のように、入口へ駆け寄って振り向いた。
「先生、今日の治療代だけど……。」
「前の分に付けておくよ。でも、急いで返そうとしなくていいからね。」
「ありがとう。あ、ジャック、『若魚亭』へ行ってて。あたし港へ行かなくちゃ。」
「お、おい、デリア!」
ジャックが止める間もなく、デリアは診療所を飛び出していった。
「追いかけるぞ、ミッシェル!」
ジャックが後に続いて扉を開いた。
「待って、ジャック!」
ラップはジャックを止めた。
「何だよ一体。」
ジャックが怪訝な顔でラップを見た。
「ダニーとアロン?」
ラップは医者と体格のいい男に向かって呼びかけた。
「そうだが、君…君たちは?」
後から帰って来た男が、困惑した顔でラップとジャックを見た。
「デリアを助けてくれた人たちだけど……。」
医者が今気付いたように目を細めた。
「ただの旅人にしては魔法慣れしているかな。まるで魔法使いを知っているみたいに。」
「おい、ミッシェル。」
ジャックが警戒心をあらわにしてラップの腕を引っ張った。
ラップはその手を押さえた。
「大丈夫、ジャック。」

ラップはジャックに頷いて見せると、二人に向かって言った。
「僕、ラップです。お二人が出て行くまで、館で同じ部屋にいたラップです!」
「え?」
「おお?」
ラップの前と後で、驚きの声が上がった。
「館の……。同じ部屋って、あのオチビさんか。」
アロンがラップに近づいた。ラップもアロンを見た。
ラップより頭半分くらい背が高い。体つきも頑丈そうで、すっかり日に焼けて逞しそうだった。
「ここにいるという事は、館を出たのか?」
アロンに聞かれてラップは頷いた。
「はい。どうしても攻撃魔法を学びたくて。」
「ははは、薬師にはならなかったか。」
間違いない。ダニーとアロンだった。ラップは胸が熱くなった。
「そうか、全然気付かなかった。大きくなったもんだ。」
ダニーこと、ダニエル先生が言った。
「ところでラップ。」
ダニーが改まって言った。
「後ろの彼が、とても話したがっているようだよ。」
ダニーの眼差しは冷たいくらいに真剣で、ラップは冷や水を浴びせられたようにゾクッとした。
振り返ると、ジャックが神妙な顔つきでじっとラップを見ていた。
そこでようやくラップは、自分の犯した過ちに気が付いた。
『自分はラップだと、言ってしまった……。』
ずっとミッシェルという名前で通そうと思っていたのに。
「僕はラップですって、どういうことだ?」
ジャックがラップに問いただした。
「ジャック、これは……。」
「お前、だましていたのか?」
ジャックの言葉は決して険しくなかったが、ラップの心は大きく傷付いた。
「だましてなんかいない。ラップっていうのは、それは、……小さいときに呼ばれていた名前だよ。」
ラップが苦し紛れに言うと、ジャックは口を山の形に曲げて不満を表した。
ラップもだんまりを決め込んだ。
喉がカラカラだ。心も痛んだ。
これ以上、嘘を重ねたくなかった。
「まあ、そういうことにしてやる。」
しばらくして、諦めたようにジャックが言った。
「ありがとう。」
ラップはホッとして言った。
「デリアを見失ったじゃないか。港へ行くぞ、ミッシェル。」
「え、でも。」
ラップは二人を振り返った。
「見たところ君たちは巡礼中かな。ネルバへ行く定期船はあさって出航だよ。時間はたっぷりある。」
アロンが言った。
「若魚亭は俺たちも行きつけにしてる。また後で会えるよ。」
ダニーも言った。
ラップは二人に向かって頷いた。
「行こう、ジャック。」
「よっし、急ぐぞ。」
二人は診療所を飛び出した。

港へ着くと、午後の漁から戻った船と、買出しに来た人々で結構な賑わいだった。
ジャックはデリアを探しにいき、ラップはネルバへ行く船を予約しに行った。
待合所にいた男は淡々と手続きを済ませてくれた。
予約札をもらうと、ラップも賑わいの中に入っていった。
ジャックとデリアはすぐに見つかった。
「船は予約できたよ。あさっての朝に出航するんだって。」
「じゃあ、二泊ね。」
デリアは籠にたくさん魚を買い込んでいた。
「巡礼は宿賃を払わないのに、いいのか?」
ジャックが心配して言う。
「二人の分だけじゃないもん。大丈夫。」
買い物が済むと、三人は連れ立って若魚亭へ向かった。
デリアの足は全く怪我をしていたように見えない。ダニーの治療は完璧だった。
夜にでも会いに行こうかと考えつつ、ラップは二人の後を歩いていった。

若魚亭の大将、つまりデリアのパパは、巡礼の二人を歓迎してくれた。
夕食には魚と野菜の煮込み料理が並んだ。
町の人も食事を取りにやってきて、食堂は賑やかだった。
ダニーとアロンも遅めに来て、厨房の片づけが済んだ大将と同じテーブルを囲んでいた。
デリアがジャックとラップのテーブルへ近づいてきた。
「ねえ、明日はどうするの?」
デリアはジャックに聞いた。
ジャックは何も考えていなかった様子で、戸惑った顔でラップを見返した。
何も予定がないのはラップも同じだった。
「空いているなら、あたし、島を案内してあげましょうか。」
デリアが言った。
「え、良いのかい。」
まんざらでもない様子でジャックが答えた。
「ふふ、決まりね!」
デリアも嬉しそうに笑った。
「おや、俺たちは彼を誘うつもりだったんだけど。」
後ろからダニーがラップの肩に手を置いて言った。
「あら、どういうこと?」
デリアが首をかしげた。
「昔の知り合いだったんだよ。デリアはこちらの彼とだけデートしてくれないかな?」
ダニーが言うとジャックは顔を赤くした。
「だ、誰がデートだよ!」
「デリアが無茶しないように頼むよ、少年。」
ダニーが小声で言うと、ジャックは仕方ないなという様子で頷いた。
「わかったよ、先生。」
「よし、それじゃ俺たちは旧交を温めるとしようか。」
ダニーはラップに笑い掛けた。頼もしい懐かしい笑顔だった。
「よろしくお願いします。」
ここしばらくの緊張が解けるような気がした。
ラップも笑顔を浮かべてダニーに頭を下げた。

次の日、ダニエル診療所の前でジャックたちと別れると、ラップは診療所に入っていった。
「やあ、来たね。」
ダニーが椅子に座って出迎えてくれた。今日も患者はいないようだ。
「アロンは朝から漁に出てるんだ。昼には戻ってくるよ。」
「そうですか。昨日の治療、見事でした。」
ラップが言うと、ダニーは愛想を崩した。
「館の人に言われると嬉しいね。君は巡礼の村に住みついたのかい、ラップ。」
ダニーは患者の座る椅子をラップに勧めた。
「いえ、たまたま縁があって巡礼に加えてもらったんです。ジャックは魔法を見ても怖がらないので助かっています。」
ラップは勧められるまま椅子に座った。
「そうか。そりゃ良かったな。俺たちもあちこちの町へ行った。このネガル島へ来たのは五年前くらいかな。貧しい島なんだが、それだけに皆が寛大でね。魔法の治療も受け入れてくれた。」
ダニーは自分の椅子に座って足を組んだ。
「男たちは大抵漁をして暮らしているんだが、怪我をして何日も休むと生活に響くんだ。だから魔法ですぐに治すと喜んでくれる。」
「島の暮らしと相性が良かったんですね。」
ラップが言うと、ダニーは苦笑した。
「役立ってはいるだろうが、俺たちの暮らしは厳しい。皆、治療代を払えないことが多くてね。デリアの家も治療費の代わりに食事を取らせてくれたり、彼女が薬草を摘んでくれたりしているんだ。おかげで君たちに迷惑を掛けた。」
「ピアじゃなくて、現物払い?」
ラップは尋ねた。
「そう。魚や貝や、薬草や、パンだったりすることもある。」
「食べていけるなら、良いじゃないですか。」
ラップが言うと、ダニーは首を振った。
「治療に必要なものが買えないんだよ、ラップ。清潔な布や薬は、魚じゃ売ってもらえないだろう。」
「ああ、そうなんだ。」
ダニーの言おうとしていることがわかって、ラップも顔をしかめた。
「高値で売れる薬草が洞窟に生えているんだ。アロンがうっかりデリアに教えてしまってね。あの子が危険を冒したのは俺たちのせいなんだよ。」
「デリアも、あの、借金を?」
ラップが言葉を選んで尋ねると、ダニーは小さく頷いた。
「まあね。親父さんを手伝って宿を切り盛りしたり、薬草摘みも頑張ってる優しい子だよ。」
ダニーは立ち上がって窓辺へ歩み寄った。
「君たちと居て、いつもよりずっと明るくて楽しそうだ。すぐに旅立ってしまうのは残念だよ。」
ラップは答える言葉が見つからなかった。
ジャックはお祖母さんのことがあるから、巡礼が終わったら当分ラグピック村を離れることはないだろう。
ラップはまた旅に出るかもしれないが、特にデリアと親しくなったわけではない。ここを訪れても彼女を元気付けたりは出来なさそうだった。

「最近の館はどんな感じなんだい? 独り立ちして二年、三年になるのかな?」
ダニーが話題を変えてきた。
ラップは一瞬間を置いて口を開いた。
「話すと、長くなるんですけど……。」
ラップはそう断わって、自分が14歳ではなく10歳で館を離れたことを話した。
「10歳で館を出た? そんな話は聞いた事がない。」
ダニーは目を丸くして再び自分の椅子に座った。
「癒し手以外育てる気がなくても限度ってものがあるだろうに。一人でどうやって暮らしてきたんだ。大変だっただろう。」
ダニーに促されるように、ラップは館を出てからの事を話した。もちろん、テュエールでの一件は語らなかった。
昼前には、漁を終えたアロンも戻ってきて、獲れたばかりの魚を焼いて食事を振舞ってくれた。
「それじゃあ今は、薬草を作るより獣や魔獣を狩って暮らしているのか。」
ラップの話を聞いて、アロンが尋ねた。
「ええ。住処がありませんから、薬草作りは難しいです。」
ラップは答えた。
干すにしろ、煎じるにせよ、薬草を加工するには日数が掛かった。
旅をしながら作業をするのは困難だったのだ。
「そうか。薬草を売っているなら、取引させてもらいたかったんだがな。」
ダニーが残念そうに言った。
「役立てなくてすみません。」
「いや、俺たちの都合だから気にしなくていい。」
アロンが言った。
「街道を歩いていると、薬草を干している光景を見ることもあります。気を付けておきますよ。」
ラップは二人に言った。

ジャックとデリアがやってくるまで、ラップは二人との会話を楽しんだ。
魔法使い同士、言葉を選ぶ必要もなく、思うままを話すことが出来た。
逆に、普段どれ程気を使って話しているか、ラップは自覚せざるを得なかった。
ジャックたちは港の市場が開く頃に戻ってきた。
ラップはダニーとアロンに礼を言って、ジャックと共にデリアの買い物に付き合うことにした。
二人もまた、楽しい時間を過ごしてきたようだった。
ジャックが港へ着くまでの間に、ネガル島の様子を話してくれたが、島の様子よりも、そこでデリアがどんな軽はずみな行動をとって笑いを誘ったかに話の中心が置かれていた。
話しながら二人は思い出して笑っていた。
なんだか、ラップには眩しい姿だった。

翌朝は、あわただしく朝食を取り、見送りのデリアと共に港へ急いだ。
ネルバへ向かう定期船は小型で、乗客も多くはなかった。
「二日間楽しかったわ。巡礼の旅、がんばってね。」
デリアはジャックに言った。
「俺もすごく楽しかった。さみしくなるな。」
「うん……」
しんみりとした二人の会話に、口を挟まない方が良いと判断して、ラップはそ知らぬ顔で辺りを見回した。
ふと壁に貼られた数枚の似顔絵に目が吸い寄せられた。
手配犯と書いてあった。
背筋がゾクッと震えるのがわかった。逃げ出したい思いがした。
だがラップは息を殺して手配書の前に近づいた。
強盗、殺人、詐欺師。様々な罪状が書かれていて、似顔絵のあるもの、絵は無くてシルエットだけのものもあった。
その中に「人買い、殺人犯」と書かれた手配書を見つけた。
手配を出しているのはテュエールの警備隊だった。
似顔絵はなく、短髪のシルエットから男と推測できるだけだ。
「民家へ不法侵入。娘を誘拐未遂。阻止しようとした家族共々殺害して放火、逃亡。魔法使いの疑いあり。」
『これだ。』
テュエールの惨劇をまざまざと思い出す。
『でも……おかしい。』
ラップは眉をひそめた。事実とは随分異なる手配書だった。
これは誰かがでっち上げたものに違いない。
恋人たちを殺害したのは用心棒のグリムゾンだった。
ラップはグリムゾン一人だけしか手に掛けていない。
それはあの場にいた複数の大人たちが見ていたことだ。
警備隊が事情を聞けば、そのことは自然と露見するはずなのに、手配書では魔法使いが全ての罪を背負ったことになっている。
ラップの気持ちは沈んだ。
テュエールに行きたくない。その思いが一層強くなった。

背後で出航時間を知らせる鐘が鳴った。
「ミッシェル、乗船しようぜ。」
ジャックが声を掛けてきた。
その後ろで、デリアが目元を赤く腫らしていた。
「ああ。デリア、お世話になりました。」
ラップは軽く頭を下げた。
「うん。二人とも体に気をつけてね。」
デリアが元気を振り絞った様子で言った。
「デリアも怪我すんなよ。じゃあな。」
精一杯の言葉だったのだろう。ジャックはそう言うと、先に船に向かって歩き始めた。
「うん、気をつけるから!」
ジャックの背中に向けた切ない言葉を聞きながら、ラップもまた定期船に向かった。

メナート国の首都、王が城を構える大都市ネルバ。
海岸に建つ王城は、石造りで厳めしく、町の歴史を感じさせてくれる堂々たる風格だった。
その城の眼前に広がる港には、町の繁栄を体現したかのように、たくさんの漁船や複数の軍艦の姿があった。
ラップたちの乗った小型の定期船は、その中を縫うようにして岸壁に停泊した。
「でっかい町だなあ。」
ジャックは船が港に入る前から、城や城下町を見てしきりに感嘆していた。
ラップは浮き浮きした気分にはなれなかったが、ネルバの町が王都にふさわしい大きさなのは実感していた。
のどかなネガル島から来たせいもあるだろうが、どこもかしこも石を使った趣で、いかにも都会らしかった。

「乗船札をお出しください。」
降りてきた乗客に向かって係員が叫んだ。
係員の後ろには、槍を持った警備兵が黙って直立していた。
ラップはハッと息を飲んだ。
さすがに王都だけある。警備の目が行き届いていると思った。
「ラグピック村の巡礼二人!」
ラップの様子など気付かずに、ジャックは銀の短剣を取り出して係員に見せた。
「おや、銀の短剣だね。ようこそネルバへ。テュエールに向かう街道は、大通りを進んだところにあるよ。」
係員は一旦銀の短剣を受け取って、形式的に表、裏と確かめた。
後ろに立っていた警備兵は、ジャックとラップの全身を上から下まで検分するように見た。
特にラップは、マントを着ているせいか、じろじろと見られた。
「よろしい。お返ししますよ。」
係員がジャックに銀の短剣を返した。係員も警備兵も、特に何も言わなかった。
二人の前を通り過ぎ、待合所へ入ると、ラップは大きく息を吐いた。
緊張が解けていくのがわかった。

ラップは待合所を見渡した。
反対側に、これから船に乗る人の受付があった。
壁に定期船の案内がいくつも張り出されていた。
ラップは近寄って見たが、ネガル島以外は知らない町の名前ばかりだった。
「ミッシェル、どうした?」
ジャックが聞いてきた。
「ボルトへ行く船を捜しているんだけど、見当たらないんだ。」
ラップは答えた。
「ふーん、聞いてみるか。」
ジャックは客の相手をしていない係員を見つけて近づいた。ラップも後ろに付いて行く。
「すいません、ボルトへ行く船ってありますか?」
ジャックが聞くと、係員は怪訝な顔をした。
「ボルト? アンビッシュ国の?」
「え。えっと、そうだよな?」
係員に聞き返されたジャックは、自信がなさそうにラップを見た。
「はい、そのボルトです。テュエールまで歩くと日数が掛かるので、直行する船があったら乗りたいんです。」
ラップは係員に言った。
係員は、またかというような顔をした。
「時々そういうお客様がいらっしゃるんだけど、我がメナートとアンビッシュ国の間の航路は、テュエールとボルトの間の一航路しかないんですよ。」
「えっ、そうなんですか。」
ラップは返事を聞いてひどくがっかりした。
「何で一つだけなんだよ。」
ジャックが愚痴をこぼした。
「国と国の取り決めだからね。私たちでは何ともならないんだよ。それと。」
係員は言葉を続けた。
「申し訳ないけどテュエールまでも海路は無くて、陸路になります。」
「ええっ!」
ジャックがいやそうな顔をした。
「それは、どうしてですか? テュエールは同じメナート国でしょう?」
ラップも尋ねた。
「うん、そうなんだけどね。航路上に危険な箇所があって、定期船は無いんですよ。」
係員はそういうと、二人にテュエールへ向かう街道の場所を教えてくれた。

「仕方ない、歩くぞミッシェル。」
ジャックは大通りへ出ると、ラップを振り返って言った。
「仕方ないね。」
ラップは心が沈むのを表に出さないように、表情に気をつけて答えた。
教えられた街道の出口を探して大通りを進んでいくと、ジャックが興奮した様子で話し掛けてきた。
「なあ、この通り、俺がシャリネで見た場所だ。本当にあるんだな、こんな豪華な街。」
ラップはふと興味を覚えてジャックに尋ねた。
「ジャックは今まで、どんな風景を見たの?」
ラップが聞くと、ジャックは口を尖らせた。
「なんだ、シャリネで見たことは他人に話さないものだって、言ってたくせに。」
「そ、そうだけど。僕はこの街の風景は見なかったから。」
ラップは自分の好奇心を少し恥じた。
「俺はここと、あとどっか洞窟と、ロウソクの燃えている所を見たぞ。」
ジャックはあまり気を悪くしなかったらしく、彼の見た光景を教えてくれた。
ラップは目を見張った。
「それって、洞窟とロウソクの光景って、テグラのシャリネで?」
「ああ、そう。」
ジャックは頷いた。
「同じ光景を見たよ。洞窟って、あの子が怪我をしていた洞窟に似ていなかった?」
ラップは興奮してジャックに尋ねた。
一緒に巡礼をしても、シャリネで見る光景は別々のものだと思い込んでいた。
同じものを見ることもあるなら、見たものについて話し合うことも出来るではないか。
「そうかなあ。暗くてあんまり覚えてないんだよな。」
ジャックは首をひねった。
あまり関心を持っていない様子だった。
「ミッシェルはどんなのを見たんだ?」
ジャックが逆に聞いてきた。
「僕は海と、あとは遺跡みたいなところだった。」
ラップは答えた。
「海か! いいなあ、広くてさ。もう一回船に乗れるんだよな。」
ジャックが嬉しそうな顔をした。
「そうだね。ボルトへ渡るときに。そのあとはずっと陸地だ。」
ラップは半ば上の空で答えた。
船に乗るのはテュエールの港だ。それを思い出してしまった。
テュエールに行きたくない気持ちは、どうにもならないほど強く、ラップは落ち着きを保つのに集中しなくてはならなかった。

大通りを大分進んだところに、比較的大きな辻があった。
旅姿をした人が曲がっていくのを見て、ラップとジャックも道を曲がり、街道に出た。
テュエールまでの道のりは、ひたすら歩くものになった。
元々先を急ぐと宣言していたジャックに加え、ラップも無駄に口を開いて、自分の感情の乱れを知られたくなかったからだ。
とうとう見覚えのある港町が見えてきたとき、ラップは心を決めた。
さっさと定期船に乗ってしまおう。
あの場所には近づかないでおこう。
そしてジャックには何も、何も話さずにおこう。

「ボルトへ行く船が出るのは明日なのよ。」
ラップの固い決意は、港について早々に砕かれた。
乗船所の係員は、ラップがひどくがっかりしたのを見て申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさいね。毎日は運行していないの。明日の船に二人分予約をしておくからね。」
「……」
「あ、えっと、お願いします!」
ラップが返事をしなかったので、あわててジャックが係員に答えた。
差し出された予約札をジャックが受け取るのも見ずに、ラップは足早に待合所を離れた。

「待てよミッシェル!」
ジャックに呼び止められて、ラップはようやく後ろを振り返った。
「ああ、……ごめん。」
声に落胆が混じるのをどうにも出来なかった。
「別に、今日船に乗れなくても困らないだろ。何をあせってるんだよ。」
ジャックは困ったようなあきれたような顔をしていた。
「うん。」
ラップは視線を落とした。
テュエールの町にいることがつらい。胸が痛む。でもその気持ちをジャックに打ち明けられなかった。
「取り敢えず、泊まるところを探そうぜ。なんなら、町を一周するか?」
ジャックが言うと、ラップははじかれたように顔を上げた。
「いや、宿を探そう。少し疲れたみたいだ。」
「そうみたいだな。じゃ、宿を探そう。」
辺りをきょろきょろと見回したジャックが、適当に道を選んで進もうとしたので、ラップは思わず声を掛けた。
「前に来たことがあるんだ。宿屋はこっちにあったと思うよ。」
ジャックが行こうとした道の反対側へ、ラップはずんずん進んだ。
「お、おい待てよミッシェル!」
声を掛けて後を追う。
後ろを振り返らなかったラップは、ジャックが怪訝そうに眉を寄せて見つめていることに気が付かなかった。

宿屋は大きな通りに沿って何件か並んでいた。
その一つに出向くと、早い時間にもかかわらず部屋に通してもらえた。
ラップは寝台に腰をかけ、大きく息をついた。
「お前、少し休んだほうが良いよ。」
ジャックはラップを見て言った。
「そうだね。ごめん、大分疲れてしまった。」
ラップは力なく言った。言葉通り、心が疲れきっていた。
「俺は町を見学してくる。ついでに海も見てくる。」
「気をつけて。いってらっしゃい。」
ラップはジャックを送り出すと、窓辺に近寄って外を見た。
宿は港から幾分離れていて、海も、惨劇の起きたあの建物も見えなかった。
気に掛かるけれども、見に行くのは怖かった。
『出歩くのは止めよう。』
ラップは寝台へ戻ると体を投げ出した。
胸が妙にどきどきして、落ち着かなかった。
テュエールにいるのだ。
三年前、ラップの人生を変えてしまったあの町にいるのだ。
久しく思い出さなかったその時の様子が、まるで昨日の事のように鮮明に蘇ってきた。
ラップは顔をしかめ、悪寒と胸苦しさに耐えた。
ジャックがこの場にいないことが有り難かった。

「ミッシェル、起きろよ。晩飯にいこうぜ。」
ジャックの声で目を覚ましたとき、あたりは大分薄暗くなっていた。
いつの間にか眠っていたらしい。
幸いなことに、疲れはほとんど取れていた。
「今行くよ。」
起き上がったラップは、ちょっと考えて、マントを脱いだ。
魔法使いを連想させるものは、やめておこうと思ったのだ。
「お待たせ。」
「珍しいな、マントを脱ぐなんて。」
ジャックが言った。
「ちょっと気分を変えてみたくて。」
ラップは当たり障り無く言い逃れた。

食事の後で、少しだけ通りへ出てみた。
夕焼けの最後の名残が、地平線に周囲の山の輪郭を浮き上がらせていた。
黄昏の町を行きかう人は、すでに暗闇にまぎれて表情が伺えなかった。
周囲の視線が見えないので、周りを気にすることも無かった。
ラップは見覚えのある街並みを懐かしい思いで見つめた。

あの日、あの時まで、ラップは子供だった。
ひたすら自分の描く夢を追い、強い魔法使いに憧れていた。
ただの一度、自分のありったけの魔力を解放した事で、幼い夢は壊れてしまった。
逃げ去った先のシフールでモーリスに出会わなかったら、ラップはとうの昔に心を壊していただろう。
修行が明けてからの二年、おぼろげな目標はあったものの、あちこちをさまよった。
やっと今、古い巡礼に参加させてもらったけれど、やはりあの事件はラップに深い傷と、強い影響を持ち続けている。
ふと、いつまでも逃げては居られないような気がした。
逃げて、つらさに耐えるのは大変なことだったが、そうやって顔を背けている限り、状況は変わらないように思えた。
だからといって、今ここで警備隊へ出頭する勇気も持ち合わせてはいなかったが。

「少しは元気になったか、ミッシェル。」
ジャックが聞いてきた。
「うん。今日はいろいろとごめん。」
ラップはジャックに申し訳ないと思った。
全く関係の無いことに巻き込んで、わがままを通してしまった。
「明日は船に乗れるからな。」
「そうだね。」
ジャックは頼もしいと、改めて思った。
二歳も年下だとは思えない。
魔法使いの象徴ともいえるマントを手放さないラップが、普通に宿を使い、街を歩けるのはジャックの手助けがあってこそだ。
「ありがとう、ジャック。」
ラップが言うと、ジャックは目を丸くした。
「何言ってんだ。元気のない奴を気にするのは当たり前だろ。」
照れ隠しなのか、ぶっきらぼうな返事が返ってきた。
無骨な暖かさが嬉しくて、ラップはそっと笑顔を浮かべた。

寝台に潜り込むと、すぐにジャックの寝息が聞こえてきた。
昼のうちに眠ったラップは、なかなか寝付けなかった。
あの日もそうだったなと、ラップは思った。
小さな子どもたちはすぐに眠ってしまい、ラップは一人、浅いまどろみの中にいたのだった。
事件が起きて、無意識のうちに転移魔法を使って、遥かなシフールまで着の身着のままで逃げ出したのだった。
長くて辛い夜だった。
『あ、荷物……。』
ラップはふと気付いた。
テュエール近郊の洞窟に、荷物袋を置いたままだった。
『もう三年経つんだ。残っていないかも知れない。』
服などは小さくなってしまって着られないし、あの時作っていた薬草はとっくに枯れて朽ちているだろう。
だがあの中には、思い出の品が入っている。
アロンとダニーがくれた手書きの地図と、一度だけ出入国手続きをしたときの証明書だ。
ラップはそっと体を起こした。
ジャックを起こさないよう気をつけて着替え、靴を履き、マントを羽織った。
窓辺に立ち、宿の前に人の気配がないことを確認すると、ラップは心を集中させて、宿屋の前へ転移した。
店を見上げて部屋の窓の位置を確かめると、ラップは町の出口に向かって歩き出した。

「なんだよ、あいつ。」
ラップの出て行った部屋で、ジャックがポツリとつぶやいた。
目が覚めたのは、動く気配を感じたからだ。
そして、盗賊の砦で育ったジャックは、気配を殺してじっとしていることを学んでいた。
ラップは気付かずに何処かへ出て行った。扉からではなく、魔法を使って。
『あいつ、何かを隠してる。』
テュエールへ着いてから、いや、もっと前からおかしい。
ジャックは寝床の中で記憶をたぐりながら眉をしかめた。
テュエールへ寄らずに次のシャリネへ行こうとしていた。
どんな理由かは想像出来なかったが、ジャックは自分に全く相談もしてくれないことが腹立たしかった。
テグラで別の名前を言い出したときもそうだった。
小さいときの名前だと説明されたが、今思うととってつけた言い訳のようだった。
『話せないことは、誰だってあるだろうけどさ。』
ジャックも出来れば生い立ちのことは他人に話したくない。
『でもミッシェルには話したのに。』
二歳年上で落ち着きのある相手で、ジャックは結構信頼していたのだ。
それがジャックだけの一方的な信頼だったように思えて悔しかった。

町の出入り口は、人気もなく静まり返っていた。
街道へ出たラップは、記憶をたどりながら小さな転移を繰り返した。
ほぼひと冬を過ごした場所だけに、洞窟を見つけることは難しくなかった。
だが、一歩足を踏み込むと鼻につんとくる獣の匂いがした。
ラップは足を止めた。
「グルルルル」
低いうなり声が洞窟の奥で聞こえた。
ラップは指先に魔法の火を灯した。
一対の光る瞳がラップを見据えていた。
「野犬か。」
ラップの言葉に安堵の思いがにじんだ。
魔獣でないのは幸いだ。
「今はお前の住処なのか。悪いけど、しばらく邪魔をしないでもらうよ。」
言い終わると同時に、ラップは空いた手を前に突き出した。
指先が白く輝き、ボンッという小さな爆発と同時に、細く輝く光の帯が野犬を襲った。
「ギャン」
野犬はあっけなく横倒しになった。
足がヒクヒクと小刻みに動いている。
「すまないね。」
ラップはつぶやき、念の為、野犬の周りに結界を張った。
もし起き上がっても結界の外には出られず、ラップを襲うことは出来ない。

身の安全を確保すると、ラップはそれでも急いで洞窟の一番奥へ向かった。
洞窟は家一件くらいの広さがあった。
奥まった部分は硬い岩が張り出しており、自然の物置台になっていた。
そこに布袋を置いてあったはずだが、炎を近づけてみても、それらしいものは見当たらなかった。
ラップは足元を照らしてみた。
たくさんの落ち葉が吹き込んで、木の葉の層を作っていた。
手が汚れるのもいとわず、ラップは片手で落ち葉をかきわけた。
がさがさという音が野犬の意識を目覚めさせてしまいそうで、時々振り返っては野犬の様子を確認した。
布地の感触を見つけたのは、物置台からずいぶん離れた場所だった。
ラップは布袋を掴んで炎で照らした。
元が何色だったか分からないほど土にまみれて変色しいてる。
口を広げると中にも落ち葉が入り込んでいた。
落ち葉を取り除くと、シャツが一枚でてきた。確認するまでもなく、小さくて使えない。ズボンも、肌着も用無しだ。
その下に、やっと探していた紙を見つけた。
折りたたまれた二枚の紙を、ラップは丁寧に取り出した。
炎を近づけ、それが目的のものだと確認する。
「よし。」
ラップはそれらを懐にしまいこんだ。
手についた土を、ズボンに当ててはらった。
きびすを返して洞窟の外へ向かう。
野犬はまだひっくり返っていた。
洞窟の入口で、ラップは野犬の周囲に施した結界を解いた。
しばらくすれば気が付くだろう。
ラップは洞窟を後にし、転移を使いながらテュエールの町へ戻った。

宿屋の前の道から、自分たちの部屋へ入り込むのが一番難しかった。
ラップは覚えておいた窓を睨み、ジャックと自分の寝台の位置を正確に思い出すように努めた。
移動する先のイメージを強く持っているほど、転移の成功率は高く、出現場所は正確になる。
果たして転移で部屋に戻ったラップは、床ではなく自分の寝台の上に着地してしまった。
柔らかな布団にバランスを崩しそうになる。
「!」
声を立てないようにするのが精一杯だった。
両手を突いて、何とか床に転がるのは防いだものの、寝台がぎしぎしと軋んだ。
ラップは大きく息をして呼吸を整えた。
「……着いた。」
横目でジャックの寝台を見る。
起きている様子は見えなかった。
「ふう。」
うまくやりおおせたようだとラップはホッとした。
ささやかな宝物も取り戻せた。
ラップはゆっくり寝台を降り、靴で踏んでしまった布団をそっとはらった。
それから、音を立てないように着替えて布団に潜り込んだ。

翌日。
アンビッシュのボルトへ向かう定期船に、ラップとジャックは乗船した。
出国の手続きは、相変わらず簡単なものだったが、それが終わって桟橋へ進むと、ラップは心の重荷がすうっと軽くなるのを感じた。
船は混み合っていて、甲板に立つ人も多かった。
ラップは船尾からテュエールの街並みを見た。
海に沿って定期船乗り場、漁師たちの寄り合い所、そしてそれぞれの船主たちが持つ倉庫や住居が立ち並んでいる。
その中にぽっかりと一軒分の空き地があった。
ラップは目を細めた。
直接その場へ足を運ぶのは恐ろしかった。
海の上へ逃げ出して、やっと見つめることが出来た。
瓦礫などは遠くて見えなかったが、隣の建物の壁には真っ黒い煤が付いていた。
『サンドラ、ご冥福を。それと、今まで来られなくてごめんなさい。』
ラップは目を閉じた。
『今度テュエールに来ることがあったら、その時はちゃんと墓参りをするよ。今はまだ……もう少し時間が欲しい。』
ほんのわずかな時間触れ合っただけの人々の顔が、脳裏に次々と浮かんだ。
戦いになったときの、グリムゾンの鬼気とした顔も思い出した。
『命を奪うつもりはなかった。なにも心構えさえもできていなかった。申し訳ないことをした。』
ラップは目を開き、顔を上げて空き地の方を見やった。
『この後悔を一生抱えていくよ。魔道師として。』
魔法を使うたびに、それが正しい道なのかと自分に問い掛けるだろう。
もし再び命を掛けて戦うことがあったら、相手の命を奪うことに迷い、考え抜くだろう。
今はもう、何も考えずに魔法を振るい、人を殺めて泣く子どもではない。
動く前に考え、判断を下し、その結果は受け止める。
『あなたの魔法も、僕の中で生きている。』
戦いのさなかにグリムゾンが使った魔法のいくつかは、ラップも扱えるようになっていた。
命を奪った後悔の中、相手の生きた証の魔法を継承したことは、ラップには一つの救いになっていた。
『きっと役に立ってくれると思う。』
ラップの思いはいつまでも途切れなかった。
声を掛けることをためらい、甲板に座り込んで複雑な顔つきで見つめているジャックに、ラップはとうとう気付かなかった。

 

(2013/4/27)