ミッシェル・ド・ラップ・ヘブン捏造企画|Junkkits

古式の巡礼

06

「ラグピック村の巡礼です。俺はジャック。」
「ミッシェルです。」
定期船がアンビッシュのボルトに到着する頃には、ラップの物思いにふける様子は見られなくなっていた。
むしろ今までより元気になった様子で、ボルトの待合所を飛び出した。
海辺に開けたボルトの町は少し奥へ入っただけで勾配のある山地へと続いていた。
「イグニスの山だ。」
ラップは足を止めた。遠くに、高くそびえる山が見えていた。
「次のシャリネはあの山のてっぺんだったよな。」
ジャックも肩を並べて山を見つめた。
「かなり高い山なんだ。冬になると雪に埋もれてしまう。」
ラップは言った。
今までに数度、この山へ登ろうと思ったことがあった。
だが、体力のない子どもの頃だったり、季節が冬だったりして、実際に登ったことはない。
「ほんっと、高そうだな。そういや村長が泣くなよって言ってたっけ。」
ジャックが言った。
「え、そうだった?」
ラップはジャックを見た。
「ああ。」
ジャックは即答した。
ラップはラグピック村の村長を思い浮かべたが、いつ村長がイグニスのことに触れたのか思い出せなかった。
「覚えていないや。聞きそびれたかな。」
ラップは肩をすくめた。
ジャックが何かに気付いたような顔をした。
「あー、お前、あの時、テュエールのことを気にしてたからじゃないの?」
「えっ!」
ジャックに言われて、ラップは言葉を失った。
そして思い出した。
出発する前の日だった。村長の家に伺って、シャリネの巡り方を教わったのだ。
テュエールを通ると聞いて、しばらくの間ほかの話が耳に入ってこなかった。
聞き逃したとしたらそのときだ。
「そ、そうだった、かな。」
かろうじて口を開いた。ぎこちないことこの上ない。
あせりで体中から汗が噴き出してきた。
ラップの狼狽した様子を見ても、ジャックはさほど驚いたようではなかった。
「なんか事情があるんだろうけどさ。一人で焦って、そんな情けない顔してたら、丸分かりだぜ。」
ジャックはラップを諭すように言った。
やさしい口調だったにもかかわらず、ラップは強い衝撃を受けた。
テュエールへのこだわりを、ジャックはとっくに気付いていたのだ。
「無理に聞いたりしないけど、いつでも相談には乗るからな。」
「!」
思いがけない言葉に、ラップは戸惑いの目を向けた。
頼もしそうな、頼って欲しげなジャックの表情が、一層ラップを苦しめた。
簡単に打ち明けられることなら、こんなに苦しんだりしないのだ。
「ありがとう。……覚えておくよ。」
声を振り絞って、そう答えた。
まともにジャックの顔を見ていられなかった。
ジャックは期待はずれな返事に不満そうだったが、ラップはそれ以上話す気になれなかった。

「ちぇっ、ま、いいや。」
ジャックは話を打ち切ると、イグニスの山を見上げた。
「登るのにどのくらい掛かるだろう。念入りに準備したほうが良いよな。」
そう言ってラップを見る。
ジャックが話題を変えたことにラップは驚いた。
だが同時に助かったと思った。
「食べ物がたくさん必要になるね。」
ラップは答えた。
「よし、店に行こうぜ。」
ジャックはラップの肩を威勢よく叩いた。
先に立って歩き始める。
その後を追いながら、ラップは正直に打ち明けられない自分に、胸が詰まりそうだった。

二人はたくさん食料を買い込んでイグニスの山を目指した。
登りに二日、下りも二日掛かると予想して、さらに予備を二日分持った。
それだけ重い荷物にもかかわらず、一日目にテントを張ったとき、二人は山の半分よりも高い位置に到達していた。
テントを張ったのは、そこそこ平らな場所で、まだ草が生えていた。
そこから上にまとまった緑は無く、茶色い岩肌がむき出しになっていた。
「明日一日で、頂上まで登れるかな。」
食事を取っているときに、ジャックが聞いてきた。
ラップは考えた。
「厳しそうだね。道はそれほど急じゃないけど、その分距離がありそうだよ。」
二人の見上げる山肌には山道が何本も見えた。
傾斜はそれほど酷くない。
その代わり、頂上へ着くまでに山の周囲を何周も歩かなくてはならない。
「あんな高い場所でテントを張りたくないな。どうせならシャリネで寝たい。」
ジャックが言った。
「賛成だ。少し早く出発して頑張ってみようか。」
ラップは答えた。

次の朝、まだ暗いうちに目を覚まして食事を済ませ、ほのかに空が白んでくる頃には二人は荷物をまとめて歩き始めていた。
イグニスの山の高い部分は、長い間風や雨にさらされて複雑な地形になっていた。
巨大な岩に天然の穴が開いて、下から見上げると、まるで岩の橋が架かっているようだった。
橋を見上げて通り抜け、しばらくすると、今度は眼下に先程の道を見ながら細い岩の橋を通過した。
登りで、手すりなどない細い道。
それだけでも大変なのに、時折り魔獣も出現した。
「落とされるなよ!」
前に出て長剣を振るいながらジャックが叫んだ。
「そっちこそ、気をつけて!」
ラップも後方から魔法で攻撃した。
とはいっても、得意の風魔法や雷を呼ぶ魔法は危険だった。
ジャックは魔獣と接近して戦っているので、狙いをはずしたらジャックを危険にさらしてしまう。
ラップは氷の槍を魔獣めがけて撃った。
こちらなら、風よりも的確に魔獣だけに狙いをつけることが出来た。
必要とあらば、空に飛び上がってでも狙った。
足場の狭いこの場所で身を守るには、どんな魔法もためらっていられなかった。
「すごいな。本当に空を飛べるんだ。」
魔獣を倒したあと、ジャックが目を丸くして言った。
ラップは小さく頷いた。
ジャックの言葉に恐れが混じらないのは幸いだ。
だが、魔法に対する単純な憧れは、急に変貌することがあるものだった。
『やり過ぎないようにしないと。』
ラップは胸の中でつぶやいた。

橋のような細い道、逆に両側を高い崖に囲まれた谷底のような道を、二人は黙々と歩いた。
足元を見つめ、無心に足を運ぶ。
日差しは弱くなり、夕暮れの気配が近づいてきていた。吹きつける風にも冷たさが混ざる。
「あっ!」
先に立って歩いていたジャックが声を上げた。
ラップが顔を上げると、両側にあった崖がなくなり、目の前は平らな地面で、視界が開けていた。
頂上に着いたのだ。
「あっ、あれは!」
ラップも声が上げた。
二人が立っている場所から右手の奥まったところに、石造りの大きな建物が建っていた。
「今までで一番頑丈そうだな!」
ジャックがラップを振り向いて笑顔で言った。
「そうだね。」
ラップも同感だった。
オルドスのシャリネは別としても、シフール、ディーネ、テグラのシャリネも古めかしく、時代を感じさせる建物だった。
目の前のイグニスのシャリネは、それらに比べると堅牢で、元手も十分掛けられているように見えた。

二人は石の階段を上がってシャリネに入った。
『おや?』
扉をくぐるときに、やんわりとした気配を感じてラップは眉をしかめた。
『結界が張ってある。』
他のシャリネでは感じなかったことだった。
シャリネの内部は静かで、人の気配がなかった。
「どなたかいらっしゃいますか?」
ラップは建物の奥に向かって呼びかけてみたが、返事もなく、人が出てくる様子もなかった。
「ここも無人だな。」
横合いの通路を覗き込んだジャックが言った。
「そうだね。」
「なんか、暑くないか、ここ。」
ジャックに言われて、ラップも気が付いた。
外は日暮れが近づいて気温が下がってきていたのに、シャリネの中はむしろ昼間のような熱っぽさがあった。
結界が張ってあるせいだろうか。
まずそう思ったが、熱が逃げていかないなら空気が淀んでいるはずだ。
しかし息苦しさはちっとも感じなかった。
結界はあっても、外の新鮮な空気は入ってきているようだ。
だとすれば、何か熱を発する物がこのシャリネにあるのだろうか。
あるとしたら……。
ラップは鏡の部屋の扉を見つめた。

「鏡を見てみようか。」
ラップはジャックに進言した。
「ああ、そうだな。」
ジャックも頷き、二人は入口の正面にある鏡の部屋の扉を開いた。
その途端、ぶわっと吹き出した熱の塊が、二人をすっぽりと包み込んだ。
「うわっ!」
「なっ、何だこれ!?」
思いがけない事態に二人は驚きの声を上げたが、部屋に一歩踏み込むと、それ以上の驚きが待っていた。
鏡の部屋は、入口から中央の祭壇に向かって石の床が敷いてあった。
部屋の左右からは別の床が伸びて、それぞれに蜀台が置かれていた。
さらに壁に沿ってぐるりと一周、人がやっと通れそうな細い床が巡らせてあった。
それ以外の部分に床はなく、真っ赤に燃える炎が下から噴き出して、部屋一面に燃え盛っていたのだ。
先程からの熱の源はこの炎だった。
「おい、どうなってんだ、これ。」
ジャックは部屋を見渡して、つぶやいた。
「魔法なのかな。すごいや。なあ、ミッシェル。」
ジャックが言葉を掛けてきたが、ラップは全く返事をすることが出来なかった。
冷たい汗が背中を流れ落ちていくのが分かった。
カタカタと歯がぶつかって嫌な音を立てた。
炎が支配する鏡の部屋は、ラップにはグリムゾンを殺してしまった時の、炎が一面に飛び散った部屋と重なって見えたのだ。
『だめだ、こんな所で思い出しちゃだめだ。』
ラップは必死に歯を食いしばった。
ただでさえラップの行動に疑問を抱いているジャックの前で、テュエールの事件の核心を蘇らせるわけにはいかなかった。
『ここはイグニスだ。シャリネだ! 怖くない。恐ろしくない!』
ぎゅっと目をつむり、心の中を空白にしようとした。
体がぶるっと震えた。
「おいミッシェル、顔色が悪いぞ。」
ジャックがそばへ寄ってきてラップの腕に触れた。
ラップはハッとして目を開けた。
「大丈夫か? 具合が悪いのか?」
ジャックの心配そうな顔が間近にあった。
体調を悪くしている原因はラップの心が抱える問題だったが、それは黙っていることにして、ラップは頷いた。
「ごめん。すぐに良くなると思う。」
「さっき、隣に小さな部屋があったぞ。そっちで休むか?」
ジャックが言った。
それも良いなとラップは考えた。
だが、一度この部屋を出てしまったら、もう一度入る勇気があるだろうか。
「ううん、大丈夫だ。鏡を見よう。」
ラップは力を振り絞って背筋を伸ばした。
「いいのか?」
ジャックは心配そうに尋ねた。
「大丈夫だ。」
ラップはもう一度、きっぱりと答えた。

「じゃあ銀の短剣を置くぞ。」
ジャックはラップに断わると、懐から取り出した銀の短剣を、祭壇の手前に置いた。
祭壇の中央にあるイグニスの鏡は、これもまた、今まで見てきたシャリネ同様、一風変わっていた。
イグニスが司るのは火。
この、火山の火口のような鏡の部屋に似合う、煮え立つマグマを湛えたような灼熱の鏡だった。
『大丈夫かな。』
ふとラップは気弱になった。
部屋に入ったときに受けた衝撃はまだ覚めやらない。
このまま鏡の映像を見たら、見たくないものを見てしまわないだろうか。
そんな後ろ向きの思いが心をかすめた。

魔法の力が呼び起こされて部屋に満ちた。
祭壇の鏡もざわめき、炎がいっそう燃え上った。
鏡の周囲に光の柱が立ち、目の前が真っ白になった。
次の瞬間、ラップは炎の塊が真正面から自分めがけて襲ってくるのを見た。
ラップの全身を焼き尽くしてしまいそうな、巨大な炎だった。
「うわあっっ!」
ラップはぎゅっと目を閉じ、その場にしゃがみこんで頭を抱え込んだ。
限界だった。
それがシャリネの映像に過ぎないことも、目を閉じて見逃してしまったら二度と見られないものだということも、ラップに顔を上げさせる力にはならなかった。
それはグリムゾンを焼き尽くしてしまった炎だとラップは感じた。
あの時、ラップがありったけの力を込めて放った魔力の塊を、シャリネは見せたのだ。
忘れるなというのだろうか。
ラップの罪は永遠に消えないと、心に刻み込めというのだろうか。
『僕は忘れない。逃げない。でも、片時の平穏も味わってはいけないというのか?』
ラップは涙をこらえ、やっとの思いで目を開けた。
目の前が真っ青だった。
「あ……。」
炎は何処かへ消え去っていた。
夜明けの海岸にいるようだった。
まだ空にまぶしさはなく、海面も輝いてはいない。
その静かなたたずまいがラップの心に心地よく染み込んだ。
ザザー、ザザーと波の打ち寄せる音が聞こえたような気がした。
癒される、とラップは思った。
この広い海はラップを在りのままに受け入れてくれる。
ここにいて良いのだと、言われたような気がした。

鏡の映像が終わると、ジャックが座り込んでいるラップを見つけて目を丸くした。
「おい、具合が悪くなったのか?」
「ちょっとね。でも、大丈夫。」
ラップはそう言って立ち上がろうとした。足元がふらつく。
それでも何とか立ち上がり、ゆっくり歩いて鏡の部屋を出た。
熱気のこもった部屋を出て、山の頂上らしいひやりとした空気に触れたとき、ラップは心底ホッとした。
「奥の部屋を見てくる。」
ジャックはそう言うと脇の通路へ入っていった。
ラップは壁にもたれて今しがたの光景を思い返した。
ぞっとする炎の塊。
ラップの魔法の力を具現化したものだ。
恐ろしかった。
殺生しか生まない無用の力。
魔法以外にこれといって取柄のないラップは、この世界で無用の存在なのだろうか。
普通に暮らしているつもりでも、ああして記憶が甦り、ラップを傷付ける。
どこかに安らかに暮らせる場所はないだろうか。
辛さを和らげてくれる仲間が、友達がいないだろうか。
それが見つかれば、辛くても生きていける気がした。
ラップはジャックが歩いていった方を見やった。
抱えた苦しみを全部吐き出してしまいたい衝動に駆られた。
「駄目だ。」
ラップは首を振った。
打ち明ける勇気よりも、話した後に起こる事への恐れが上回っていた。

「ミッシェル、一番奥に寝台があるぞ。」
戻ってきたジャックが言った。
「歩けるか?」
「大丈夫、ありがとう。」
ラップはふらつきながら、ジャックの後ろについていった。
通路の一番奥に、寝台が四つ置かれた部屋があった。
もっとも、寝台は木の板がむき出しで、柔らかな敷布団も暖かな毛布もなかった。
ジャックはあちこちを探して布団を見つけようとしたが、とうとうそれらは置いてないという結論に達したようだった。
「まあ、テントで寝るよりいいよな。」
ジャックは自分に言い聞かせるようにつぶやき、荷物の中から干した魚と干しぶどう、ビスケットを取り出し、食べ始めた。
ラップはあまり食欲が沸かなかったが、ビスケットを少しだけかじった。
それから手持ちの毛布を体に巻きつけて横になった。
石造りの頑丈な建物は隙間風も殆どなく、鏡の部屋から漂ってくる温もりにも助けられて、ラップはすぐに眠りに落ちた。

次の朝、目が覚めると、頭に鈍い痛みがあった。
「そんなんじゃ、今日は動けないな。」
ジャックはこめかみに手を当てて眉を寄せているラップに言った。
「いや、下山しよう。このくらいすぐに治るよ。」
ラップは下りたいと言い張った。
イグニスのシャリネは、ラップが隠しておきたい事柄を刺激するものが多すぎた。
ここに留まっても心は休まらず、体調も良くなるとは思えなかったのだ。
「平地に降りたほうが落ち着くと思うよ。」
あまり説得力のない理由を述べて、ラップはさっさと身支度をはじめた。
ため息を一つついて、ジャックも自分の荷物をまとめはじめた。

下り道は楽だろうと考えたのは、ラップの思い違いだった。
一歩踏み出すごとに足に体重が掛かる。
支えきれずに次の一歩が出る。
そんな風に足早になってしまうので、意識して歩調を保たなくてはいけなかった。
しかも時々足元がふらつくため、すぐに疲れを感じ始めた。
頭痛も心なしか酷くなったような気がする。
ジャックは時々振り返ってラップの様子を伺った。
心配ないと判断するのか、何も声を掛けずにまた歩き出す。
いや、あきれているかも知れない。
ラップは一歩一歩安全を確認しながら下りていった。

「ちっ、向こうに魔獣がいる。」
ジャックが足を止めた。
道が細く、両側が崖で、橋のようになっている場所だった。
橋の向こうの少し広くなった場所に、数匹の魔獣がいた。
「一匹ずつ片付けるしかないな。ミッシェルはここにいろよ。」
ジャックは自分の長剣を抜いた。
「待って。先に魔法で攻撃してみる。」
ラップは声を掛けた。
魔獣との距離があるなら、強い魔法も掛けられる。うまくいけば全滅させられるかもしれない。
「大丈夫か?」
ジャックが振り向いて聞いた。
ラップは頷いた。
「じゃあ、頼む。」
ジャックが下がったので、ラップは替わって前に進み出た。
魔獣は三匹。
ラップは片手を高々と上げ、手のひらに光を集めた。
「いかづち!」
前へ向かって放つと、まばゆい光の玉が前方へ飛び、そこで稲光となって魔獣に降り注いだ。
一匹がその場に横倒しになった。
もう一匹はよろめいたものの、まだ立っている。
そしてもう一匹が、羽を広げて空へ飛び上がった。
「くっ。」
ラップは一匹しか仕留められなかった事に歯噛みした。
「よし、あとは任せろ!」
ジャックが、よろめいた魔獣に向かって細い橋を走った。
ラップは空に舞い上がった魔獣を睨んだ。
フッと鋭く息を吐く。頭がずきりと痛んだ。
体調は万全ではない。だが、短い時間なら戦える。
「かまいたち!」
ラップは魔獣に向かって切り裂く風を放った。
間を置かずにもう一度、更にもう一撃。
先の二発は魔獣がひらりと逃げかわしたが、最後の一発が命中した。
片羽が、どさっと重い音を立てて地面に落ちる。
魔獣は残った片方の羽で必死に飛ぼうとしたが、それは無駄な足掻きだった。
魔獣は落下しながら、ラップに突撃してきた。
「おっと。」
ラップは、後方に向かって軽やかに跳ねた。
攻撃が空振りに終わった魔獣は、ラップの目の前に転がり落ちた。
「いかづち!」
ラップは狙いを定めてとどめの一撃を放った。
魔獣の体から細い煙が立ち上った。ピクリとも動かない。
「ふう。」
ラップは汗をぬぐった。
少し動いただけなのに、普段よりも疲労を感じた。

細い道の向こう、ジャックの戦いも勝敗が決まりかけていた。
魔獣はいくつも傷を作っていた。
それでもジャックに向かって突進してくる。
ジャックは真正面から対峙するつもりのようだ。
体に力を溜めて、間合いを計っているのが後ろからでも分かった。
魔獣とぶつかるかと思うほど距離が狭まったときに、ジャックは横合いに飛んで、自分の横を走り過ぎる魔獣をなぎ払うように切りつけた。
魔獣は勢いが止まらず、道から外れて崖の下へ落ちていった。
「勝ったぞ!」
剣を振り上げてジャックが叫んだ。
ラップは荷物を抱えて、細い道を渡った。
「おめでとう。はい、荷物。」
ジャックの足元に荷物を下ろすと、ラップは崖の下を覗き込んだ。
魔獣が倒れているのが見えた。
「ゴアを取りたいけど、あのあたりは通るかな。」
後ろからジャックが言った。
振り向くと、倒した魔獣からゴアを拾い上げたところだった。
「ほら、半分。」
いくつかのゴアをラップに向かって投げる。
「ありがとう。」
ラップはそれを受け取った。
「また別のを倒せばいいと思うよ。足りないわけじゃないし。」
ラップは言い、小袋にゴアを仕舞った。
「それもそうか。」
ジャックは自分の取り分のゴアを手のひらに広げて、満足そうに笑った。

その日は周囲に草や木が見られるようになってから野営した。
次の日、ラップの体調はまだ思わしくなかった。
イグニスのシャリネで受けたショックは薄らいできていたが、下山でたくさん汗をかいたせいか、頭痛が引っ込んだ代わりに、体が熱を持っていた。
昼頃には山を降りきって街道に出た。
平らな道がこんなにありがたいものだと感じたのは初めてだった。
「明るいうちにアンデラに入れそうだ。」
街道の傍らに置かれた道標を見てジャックが言った。
「そう。」
ラップは努めて明るい声を出して答えた。
「まだ具合悪そうだな。町まで頑張れるか?」
ジャックが聞いた。
「頑張るよ。宿で眠りたい。」
ラップは心の底からそう言った。
周辺の危険に配慮せずぐっすり眠れるし、なにより寝台の暖かく柔らかなことといったら、ほかに代わるもののない快適さだった。
普段は宿代のこともあって、何より自分が魔法使いだという自覚があって、積極的に利用してこなかったが、巡礼の旅に参加して宿屋の寝台で眠る魅力に目覚めてしまった。
「じゃあ行くか。」
歩き出したジャックに、遅れないように付いて行く。
体が熱かった。

 

アンビッシュの首都、アンデラの町は、なだらかな平地に広がっていた。町の奥には湖のほとりに建つ王城をいただいている。
町の入口には見張りの兵士がいた。
「俺たち巡礼者です。」
いつものようにジャックが告げると、兵士は愛想よく話し掛けてきた。
「巡礼お疲れ様。イグニスの山は大変だっただろう。」
「あんなに高い山だとは思わなかったよ。」
ジャックが真顔で言い返した。
兵士は二人に同情するように笑った。
「アンデラでゆっくり身体を休めていくんだな。」
兵士はそう言って二人を通してくれた。

「宿はどこでも良いよな。最初に見つけたところにしよう。」
ジャックがラップに言った。
ラップは言葉が出てこず、こくりと頷いて答えた。
町へ入って安心したせいか、体の火照りが一層ひどくなった気がした。
それほど歩かないうちに宿酒場の看板を見つけ、二人は一夜の宿を確保した。
部屋に入ると、ラップはマントも取らずに寝台へ突っ伏した。
「おい、ミッシェル、大丈夫か?」
ジャックが側に来て様子を伺う。
ラップは何とか顔を横へ向けてジャックを見た。
「薬を飲んで眠るよ。何も食べられそうにない。」
ラップが言うと、ジャックは分かったという風に頷いた。
「ちゃんと布団を掛けて寝るんだぞ。俺、下で食事をしてくる。」
ジャックは荷物を置くと、階下の食堂へ降りていった。
ラップは熱くて重い体を何とか起こし、マントを脱いで畳んだ。
物入れから薬草を取り出し、水筒の水で飲んだ。
冷たい水が気持ち良かった。
『早く治さないと。』
心の疲れが体の不調を呼んでしまったのだろう。
とにかく休んで、体調を整えなくてはいけない。
ラップは寝台へ潜り込んだ。

階下の食堂へ降りたジャックは、きょろきょろと周囲を見回した。
店は繁盛していて、空いたテーブルがなかった。
「君、良かったらここに座りませんか。」
そばのテーブルにいた男が声を掛けてきた。
見ると、黒いマントを着たおとなしそうな男がジャックに笑い掛けた。
男の向かいの席が空いていた。
「いいのか、ありがとう。」
ジャックは礼を言って男の正面に腰掛けた。
店員が寄ってきた。
「巡礼の子、だよね? もう一人いなかった?」
「ちょっと具合が悪いんだ。食べられそうにないって言うから、俺だけお願いします。」
ジャックが言うと、店員はわかったと言って下がった。
「巡礼だって?」
向かいの男が、食事の手を止めて声を掛けてきた。
まだ青年と言ってよさそうな歳に見えた。
「ああ。俺たち村のしきたりで巡礼をしてるんだ。」
ジャックは答えた。
「まだ子供じゃないか。大人は一緒じゃないのかい?」
男は驚いたように言った。
「成人のための旅だから、子供だけなんだ。」
「へえ、すごいね。アンビッシュの国中を旅するのかい。」
男は興味深そうに尋ねてきた。
「違うよ。俺、フォルティアから来たんだぜ。」
ジャックは胸を張って答えた。
「フォルティアから、ネガル島へ行って、城のあるでかい街へ行って、もう三つもシャリネを見てきたんだ。」
ジャックが言うと、男は感心したように何度も頷いた。
「すごいねえ。それでその『シャリネ』というのは何なんだい?」
「それはね、でかい鏡があって、この銀の短剣を……」
ジャックが得意げに懐から銀の短剣を取り出そうとしたとき、店員が料理を運んできた。
「おっ、待ってました!」
ジャックは手を止めて、テーブルに皿が並ぶのを見守った。
向かいの男がくすりと笑った。
「ん?」
自分が笑われた気がして、ジャックは頬を膨らませた。
「失礼。食べ物が一番なところは子供だと思ってね。熱いうちにおあがりよ。食べてから続きを聞かせてくれると嬉しいな。」
「ちぇっ。」
ジャックはちょっと怒ってみせたが、食事の誘惑には逆らえず、がつがつと食事を取った。
向かいの男は先に食べ終えて、自分の財布から、大きなコインをいくつかテーブルに並べだした。
ジャックは食事を終えると、興味深そうに男に聞いた。
「それ、何だ?」
「古い時代のコインだよ。こういうのを集めるのが趣味なんだ。」
男は親指と人差し指でコインを挟み、ジャックの前にかざして見せた。
「これはアンビッシュの古い銀貨だよ。」
反対側の指で端をはじくと、コインは勢いをつけて回り始めた。
「表に初代国王、裏にはイグニス山が描かれているんだ。」
「回ってて見えねえよ。」
ジャックは言った。
「だんだんゆっくりになる。ほら、見えてきただろ。」
男はジャックが見やすいように、顔のそばへコインを近づけた。
男の指の間で、コインは緩やかに回る。
くるくるくるくると、いつまでも同じリズムでコインは回り続け、それを見ていたジャックも、いつまでもコインから目を離さなかった。

どかどかと物音がした。
続けてバーンと扉が壁にぶつかる音。
「ミッシェル! 起きろ、ミッシェル!」
慌てふためく声がラップを呼び、背中を揺さぶった。
「うん……、どうしたの。」
体を起こそうとすると、まだ体が重く熱っぽかった。
ラップは上体を起こそうと努力しながらジャックに尋ねた。
「大変だ、銀の短剣を盗まれた!」
ジャックが叫んだ。
「なんだって?!」
今度はラップもはっきり目が覚めた。
「どうしよう、ミッシェル。あれがないと俺、ああ、どうしよう。」
ジャックはおろおろしている。
その後ろから宿の主人が顔を見せた。
「そっちの子が持っていたりしないかい。」
ラップの方を見て尋ねた。
「いいえ、僕は。」
ラップは首を横に振った。
「あいつだ、俺の前に居たあいつが盗んだんだ!」
ジャックは頭を抱えた。
具合が悪いなどと言っていられなかった。
ラップは靴を履き、マントを羽織った。
「ジャック、下で何が起きたのか、教えて。」

ラップたちが階下へ降りると、若い店員が兵士を三人連れて戻ってきたところだった。
客たちは興味津々な顔つきで様子を伺っている。
「オヤジさん、警備の人を呼んできたよ。」
「おお、ご苦労様です。」
主人は兵士を店の隅のテーブルへ案内した。
ジャックとラップもそこへ行った。
「ご主人、何か盗まれたと聞きましたが。」
「巡礼のお客さんが、銀の短剣が無くなったと。こちらがその巡礼の子です。」
主人はそういって兵士にジャックを紹介した。
「無くなったんじゃない、盗まれたんだ!」
ジャックが言った。
「アンデラ警備隊の者です。さっそくですが、どういう状況か教えてください。」
兵士は言った。
「俺たち、ラグピック村の巡礼です。」
ジャックは話し始めた。
「俺たち、というと、他にも巡礼の方が?」
兵士はジャックの話をさえぎって聞いた。
「ミッシェルも一緒です。でも今日は、上で寝てました。」
ジャックは隣に居たラップを見て答えた。
「ほう。」
兵士がラップの方を見た。
ラップは軽く頭を下げた。
「イグニスのシャリネを見るのに、山へ登ったんです。それで体調を崩してしまって部屋で寝ていました。」
ラップは事情を述べたが、心の中でマントを着てこない方が良かったなと思った。
「ああ、なるほど。」
兵士は思い当たるという風に頷いた。
「俺が一人で席を探していたら、黒いマントを着た奴が、向かいの席に座らせてくれたんだ。」
ジャックが言った。
「黒いマントの男。」
兵士が確認する。
「うん。」
「若い人?それとも年寄りだったかな?」
兵士が重ねて聞いた。
「結構若かった。優しそうで親切で、シャリネの事を聞かれて話したりしたんだ。」
「銀の短剣は、その男に見せたんですか?」
「いや、見せようとした時に料理が来たから、見せてない。」
ジャックは左の脇腹あたりを手で押さえた。
「相手はそこに剣をしまってあると気付いたのかな。」
兵士が追求した。
「さあ……。」
ジャックが言いよどんだ。
「お客さん、剣を取り出しかけてたよ。僕にも見えた。」
兵士を呼んできた店員が言った。ジャックに給仕したのが彼なのだろう。
ジャックが苦々しい顔をした。
ラップは眉を寄せた。
ジャックを一人にさせてはいけなかった。
二人で気を付けなければいけなかったのだ。
「食事のあと、変なコインを見せられて、それで、それから後のことは覚えてなくて。店の人に起こされて、寝てたって気付いたんだ。」
「変なコインね。ふーむ、魔法でも掛けられたかな。」
兵士が互いに顔を見合わせた。
「魔法ですか?」
ラップが尋ねた。
これほど簡単に魔法という選択肢が出てくることは驚きだった。
「コインに気を取られている間に、眠りの魔法を掛けられた可能性はある。君、男の似顔絵を書けるかな。」
「えっ、俺、絵なんて書けねえよ。」
兵士に言われてジャックはうろたえた。
「でも、相手を見ているのはジャックと店員さんだけだ。書いてみようよ。」
ラップはジャックに言った。
「あとで紙を持ってくるから、書いてみてくれるかな。」
兵士が言った。
「相手の男は、店に来るのは初めてでしたか?」
兵士は、今度は店員と主人に尋ねた。
「初めてかどうかは分かりませんが、少なくとも常連のお客様ではないです。」
店員が言った。
「わしも覚えがありません。」
「そうですか。」
兵士はしばらく考え込んだ。
「手分けして黒いマントの男を見かけたか、聞き込みをしてみます。今店内におられるお客様にも、何か知っていないか聞いてよろしいですか。」
「はい。よろしくお願いします。」
店の主人が頭を下げた。ジャックとラップもそれに習って一礼した。
兵士たちはもう一度ジャックから、相手の容姿について聞き、一人は店内を聞き込み始め、あとの二人は外へ出て行った。

「見つかるかな。」
ジャックが切羽詰った声でラップに尋ねた。
「どうかな。あまり、期待はできない気がするけど。」
ラップは正直な感想を答えた。
ただの泥棒だったら、盗んだところをすぐに追い掛けたのだったら、見つかったかもしれない。
でも、ジャックは眠らされて、その間に犯人は立ち去ってしまっている。
「ちくしょう。どうしたらいいんだよ。」
ジャックは肩を落としていた。
ラップにも、いい解決方法は思い浮かばなかった。

しばらくすると、長い紙筒を持った男が入ってきた。
聞き込みをしている兵士と何やら話し、ラップたちのところへ来た。
「似顔絵を書いてもらう紙を持ってきたよ。大変なことで動転しているだろうけど、似顔絵があると寄せられる情報も増えるからね。」
男はそう言って筒を開け、紙とペンとインク壺を取り出した。
鎧兜は付けておらず、一見兵士には見えなかった。
男に促され、ジャックは緊張した面持ちで、ペンを取り上げた。
店員も一緒になって、二人は黒マントの男の似顔絵を書き上げた。
「ほう、これは。」
紙筒を持ってきた男は、仕上がった似顔絵を見てうなった。
「絵なんて、書いたことないからさ。」
ジャックが肩を落とした。
「いやいや、違うんだ。君たち、これを見て欲しい。」
男は紙筒を開けて、別の紙を取り出した。
手配書だった。
紙が黄ばんでいる。
そこに大きく似顔絵が描かれていた。
「あれっ、この男って……。」
店員が声を上げた。
「ちょっと似てる。」
ジャックも食い入るように似顔絵を見た。
ラップは似顔絵の下に書かれた文字を読んだ。
「『銀の短剣窃盗犯』。往来で巡礼者より銀の短剣を奪って逃走。アンデラ城下に潜伏の疑いあり。」
「これ、どういうことだ?」
ジャックは男に尋ねた。
「これは三年前の手配書だ。また銀の短剣が奪われたというので、気になって持ってきたんだよ。同じ犯人の可能性があるようだね。」
「この時は捕まえたんですか。」
ラップが聞いた。
男は首を横に振った。
「見つからなかった。町の出入り口は封鎖して厳重にチェックしたんだけどね。」
「どっちの方へ逃げたとか、何か記録が残っていませんか?」
ラップが重ねて尋ねると、男は不審げな顔をしてラップを見た。
「それを聞いてどうするのかい。」
「探します。相手は魔法使いだと思います。結界か何かで、身を隠しているんじゃないでしょうか。」
「ミッシェル……。俺も一緒に探す!」
ジャックが立ち上がった。
「相手は魔法使いだぞ。我々に任せなさい。」
男が二人に諭すように言った。
「気をつけます。じっと待っているなんて出来ません。」
ラップは譲らなかった。
男が改めてラップを見た。肩にかかるマント、それから何も持っていない右手へ視線が移った。
「良いマントだ。まるで、修行開けに恩師から頂く品のようだ。」
男はラップをじっと見て言った。
『問われている。』
ラップは気付いた。
お前は魔法使いなのかと、遠回しに聞かれているのだ。
ラップは男に向かって微笑んだ。
「大事なマントです。それに銀の短剣も、巡礼をしている者にはとても大切な物なんです。」
ラップが答えると、男は思案顔になった。
「私も一緒に行こう。ちょっと待っていてくれ。」
男は店にいた兵士に何事か話し掛けた。
「わかった。店は俺が見張る。客からは収穫無しだ。」
兵士が答えたのが聞こえた。
「ご主人、この二人を連れて行きます。何かあったらそこの兵士に知らせてください。」
男は店の主人にも話し掛けた。
「わかりました。」
ラップとジャックは主人の横を通るときに声を掛けた。
「行ってきます。」
「見つかると良いな。」
主人は励まして送り出してくれた。

男が最初に向かったのは兵士の詰め所だった。
ラップとジャックは入口で待っていた。
男は似顔絵を広げて部屋の奥にいた老人に渡すと、二言三言声をかわしていた。
再び男が出てきたとき、その手には背丈ほどの杖が携えられていた。
「あなたも、魔法使いなのですね。」
ラップは男に言った。男は頷いた。
「私はジーノだ。鎧も兜も着けていないが、アンデラ警備隊の一員に変わりはないよ。」
ジーノは弁解するように言った。
「それより君、自分の杖はないのかい。」
ジーノがラップに尋ねた。
「杖は使いません。」
ラップが答えると、ジーノは驚いた顔をした。
「珍しいな。町の出入り口はもうチェックを始めている。私たちは、三年前に犯人を見失った場所へ行こう。」
ジーノは二人の先に立って歩き始めた。
ラップはマントの前をかき寄せた。少し寒い。
店の中では感じなかったが、外へ出ると秋の夜風が冷たかった。

アンデラの町は、あちこちに水路があった。
「湖が近いからね。豊富で澄んだ水はわが町の誇りだよ。」
いくらか町の中心から離れたところで、ジーノは街道を外れ、水路に並行して設けられた歩道に入っていった。
家並みが途切れ、歩道の脇は空き地や雑木林が目に付くようになった。
「こんなところに人が居るのか?」
ジャックがジーノに尋ねた。
「もちろん民家などないよ。だが盗人が隠れ場所にするには都合の良いところだ。」
ジーノが答えた。
「三年前の犯人は、町に入ってくる人を見張っていたらしいんだ。巡礼は君たちのように若者だけで旅をしているからね。そして、人通りの少ないところでぶつかってきて銀の短剣を奪った。」
ジーノが話した。
「そんな乱暴なやり口だったんですか。」
ラップは驚いた。
ジャックに接近してきた様子と随分違う。
「同じやり方は通じないと考えたかもしれないね。君は腕っ節が強そうだし。」
「へへ、まあな。」
ジャックが言った。
「犯人はこちらの方角へ逃げた。だが、町の出口に不審な者は現れなかったんだ。だからこの辺りに逃げ込んだ可能性が高い。」
「犯人が空を飛んだ可能性はないんですか?」
ラップが尋ねた。
「そんなんだったらお手上げだ。だが、魔法を使うからといって、空に浮かべる者は決して多くはないんだよ。」
ジーノの返事を聞いて、ラップは意外に思った。
「そうなんですか?」
「そうだとも。さあ、そろそろ行き止まりだ。」
ジーノは歩みを止めた。ラップとジャックも立ち止まった。
月の明かりに湖面がきらめいていた。
歩道は湖に突き当たって終わっていた。
「何もない。誰もいないぞ。」
ジャックは湖を覗き込み、周囲を見回して肩を落とした。
ラップは目を閉じた。
人の気配がないか探ってみる。
こちら側にも、水路の向こう側にも、もちろん湖の上にも何の気配もなかった。
遠く、湖の向こうにたくさんの気配があった。
目を開いてみると、明かりのきらめくアンデラの城が見えた。
ラップには縁のない世界だった。
湖を渡ってくる冷たい風に体がぶるっと震えた。

「君、何か分かったかな。」
ジーノが聞いてきた。
「いいえ。誰も居ません。」
ラップは答えた。
「暗闇の中では隠れ場所を探すこともできない。明かりを打ち上げてみよう。」
ジーノが言った。
「え?」
ジャックが首をかしげた。
「光の玉を出すから、この辺りに変わった事がないか探して欲しい。」
「わかった。」
「わかりました。」
ジーノが杖を高々と持ち上げ、詠唱をした。
呪文に耳を澄ますと、炎を操る系統の魔法だとわかった。
「えいやっ!」
掛け声と共に杖の先端がまばゆく光り、オレンジ色の、光る雲のような塊が上空に浮かんだ。
雑木林に明かりが差し込んだ。
ジャックが素早い身のこなしで林へ駆け込んでいった。
ラップは水路をはさんだ反対側へ飛んだ。そのまま飛行しながら変わったことがないか探った。
徐々に光は暗くなっていった。
元の場所へ戻ろうかと思ったとき、再び光が打ち上げられて明るくなった。
木々の間を縫って人影や不審な物、魔法の気配を探したが、それらしい物は見つからなかった。
アンデラの町並みが見えてきたので、ラップは向きを変えてジーノのいる場所へ戻った。
「どうだね。」
ジーノが尋ねた。
「何も、怪しい物はなかったです。」
ラップは答えた。
ジャックはまだ戻ってきていなかった。ジーノがもう一度、光の玉を打ち上げた。
「君は、ずいぶん力があるようだ。」
杖を下ろしたジーノは、ラップに言った。
「どうでしょうか。あまり、ほかの魔法使いの事を知らないんです。」
ラップは答えた。
「弟子を山ほど抱えている指導者でも、君だったら欲しがりそうだ。」
ジーノは言った。
その言い方に少し棘があるように感じたのは、ラップの聞き間違いだっただろうか。
「まあ、君がそういう所の修行に満足するかどうかは、別の話だろうけどね。」
ジーノはそう言ってにやっと笑った。
ラップはあいまいに頷いて押し黙った。
魔法の都にも、色々な内情がありそうだと思った。

しばらくすると、がさがさと音を立ててジャックが姿を現した。
ジーノとラップを見つけると、ジャックは大きな声で言った。
「ミッシェル、林の奥にあれがあった。」
ジャックの声は戸惑った様子に聞こえた。
「あれ?」
ラップは眉を寄せた。ジャックの言おうとしていることが分からなかった。
ラップは小走りにジャックに駆け寄った。
「ジャック、あれって、なに?」
すぐ後ろにジーノも駆けつける。
「ほら、シャリネで見た、お前も見たって言ってた奴。ロウソクを燃やす奴。」
「燭台?」
「それだ。林の中に土が盛り上がったところがあって、その上に置いてあった。」
ラップはジーノを見た。ジャックも指示を待つように見つめる。
「君たち、どこでそれを見たと言った?」
ジーノが二人に尋ねた。
「シャリネです。シャリネのお告げで、二人とも同じ物を見たんです。」
ラップが答えた。
「お告げ? ……ともかく行ってみよう。」
疑い深そうな声だったが、ジーノは決断した。
ジャックを先頭にして、三人は雑木林に入った。
ジーノが小さなランタンを灯してくれた。

ジャックが見つけた土の盛り上がりは、自然のもののようだった。
木も生えていたし、草もびっしりと生えていた。
その草の中へ隠すように、ジャックの言った燭台が立てて置かれていた。
真ん中に一本、左右に三本づつ、ロウソクを刺す針が付いている。
こんな場所に置かれているのに、泥などは全く付いていない。
「なるほど、怪しそうだ。」
ジーノが燭台に歩み寄って、触れそうなくらいぎりぎりまで手をかざして調べた。
ラップはジーノと同じ事をしたくてたまらなかったが、じっと我慢した。
「隠れ家に通じるためのからくりかもしれない。」
ジーノが二人に向かって言った。
「これを使って、魔法使いが近くに潜んでいる可能性がある。しかし、どう動かすのかわからないな。」
「俺が見たのは、明かりがついてた。」
ジャックが言った。
「僕が見たのもそうでした。ここと、」
ラップは左に張り出した枝の、一つの針を指し示した。
「ここです。」
今度は右に張り出した枝の、一番端の針を指した。
ジャックがそうだという風に頷いた。
「ふむ。試してみるか。」
ジーノが懐から小さな袋を出し、ロウソクを二本取り出した。
「待って、おじさん。」
ジャックがロウソクを立てようとしたジーノを止めた。
「ミッシェル、ロウソクが刺さっていたか?」
ジャックに言われて、ラップはもう一度シャリネで見た映像を思い起こした。
暗闇の中に揺らめいていた炎。
浮かび上がる金属の燭台。
だが、炎の根元にあるはずのロウソクの印象が出てこない。
「なかった、と思う。」
ラップは答えた。
「魔法で点けた火だと言うのかい。」
ジーノがラップに尋ねた。
「はい。」
「そうか。」
ジーノはロウソクを袋に戻した。
「少し離れていなさい。」
ジーノは二人に言うと、燭台に向かって両方の手を伸ばした。
先程ラップたちが示した針に向けて、呪文をつぶやく。
ラップとジャックはそれをじっと見守った。
ポッと片方の針の上に灯が点った。
続けてもう一つにも。
ラップはふと背後に魔法の気配を感じて振り返った。
「ああっ、これは!」
三人の真後ろの地面に、青白い円が浮かび上がっていた。
円の中は真っ暗で、地面ではなく奈落が口を開けているようだった。
「この中にあいつが居るんだな!」
ジャックが叫び、ためらいもせずに円の中へ踏み込んだ。
「待ちなさい!」
「ジャック!」
制止の言葉は間に合わなかった。
円の真ん中へ進んだジャックの姿が、パッと掻き消えた。
「ええいっ。」
ジーノが円の中へ踏み込んだ。
ほぼ同時に、ラップもまた、円の中へ身を躍らせた。

ジャックは、真っ暗な穴に落ちたと思うと、次の瞬間には暗い部屋の隅に立っていた。
「どこだ、ここ。」
きょろきょろと見回すと、開きっぱなしの扉が見えた。
どうやら家の中のようだ。
扉の向こうは明るかった。
その明かりの中にちらりと人影が見えた。

「君たち、ちゃんといるか?」
ラップが穴から暗い部屋に降り立つと、殆ど同時に着いたらしいジーノが、小さな声で確認するのが聞こえた。
「います。」
同じように小声で答える。
「いるぜ。」
ジャックの声もした。
「あっちの部屋に人がいる。」
ジャックが扉の向こうを差して言った。
「あいつかどうか、確かめてやる。」
そのまま歩いていくのを、ジーノが腕を掴んで引き止めた。
「危険だ。私に任せなさい。」
「止めないでくれよ。銀の短剣を取り戻すんだ。」
ジャックはジーノに言い返した。
「ジャック、相手は何をしてくるか分からないよ。」
ラップも言った。
「だったらお前は見てろよ。銀の短剣はちゃんと村へ持って帰らなきゃいけないんだ。」
ジャックの声は強い決心に満ちていた。
「僕も行くよ。」
ラップも語気強く言い返した。
二人の後ろでジーノが長いため息をついた。
「せめて私の後ろに居てくれたまえ、二人とも。」

「ここへ入ってくるとは、大した方たちですね。」
ジーノを先頭にして三人が明るい部屋に入っていくと、奥の机で本を見ていた魔法使いが薄く笑顔を浮かべて話し掛けてきた。
魔法使いは黒いマントを着、同じ黒い色のフードを浅くかぶっていた。
机の上に置かれた燭台に照らされて、顔を見ることが出来た。
まだ若い。30歳には届いていないように見えた。
落ち着き払った様子は、三人が自分のテリトリーへ入ってきたことを、とうに承知していたと物語っていた。
「あんた、さっきは俺をだまして!」
ジャックが飛び出そうとしてジーノに引き止められた。
「離せ!」
「この男に間違いないんだな。」
「ああ、そうだ!」
ジャックはジーノの手を振りほどいて魔法使いに詰め寄った。
「銀の短剣を返せ!」
「さて、何のことでしょうか。」
魔法使いは両手を広げて首をかしげた。
「私はアンデラ警備隊の者だ。今日あなたが利用した宿酒場で銀の短剣が盗まれて、捜査をしている。」
ジーノがジャックの隣に並び、来訪の理由を伝えた。
「それはご苦労様です。まずは座って落ち着かれてはいかがですか。」
魔法使いは二人の左手にあるソファを指し示した。
「知らん振りするなよっ!」
ジャックが詰め寄ろうとするのを、再びジーノが押さえてソファに座らせた。
「おや? あなたも巡礼の方ですか? どうぞ。」
部屋の入口で立ち止まっていたラップに、魔法使いが声を掛けた。
「いいえ、ここで結構です。」
ラップは軽く会釈をして断わった。
魔法使いは気に入らない様子だったが、それ以上は言わず、ソファに座ったジーノとジャックの前へ立った。
「確かに僕はこの少年と同じテーブルでしたよ。でも、店は相当混んでいたのです。席がなくて困っている様子だったから声を掛けたまでです。」
「巡礼のことを聞いてきたじゃないか。」
ジャックが責めるように魔法使いに言った。
「子供一人だったからね。珍しいと思って尋ねたんだよ。」
魔法使いはすらすらと答えた。

『まるで答えを用意してあったみたいだ。』
ラップは魔法使いに不信感を抱いた。
『さっき僕のことを巡礼ですかって聞いた。マントを見ればジーノさんの部下と考えてもおかしくないだろうに。』
二人が宿で銀の短剣を見せたとき、この魔法使いはもう二人を監視していたのかもしれない。
『それに、この部屋は落ち着かない。』
ラップは部屋を見回した。
整理整頓の行き届いた清潔な部屋だった。
奥に広い机があり、立派な装丁の本が広げられていて、大きな燭台が照らしていた。
燭台は外にあった物と同じ形で、七本の針を持ち、こちらはその全てにロウソクが刺されて燃えていた。
ジャックとジーノが座っているソファは左の壁寄りに置かれていた。
その後ろにも明々と燃える燭台があった。
二人の前に魔法使いが立っていた。男としては少し華奢な体型なのがマントの上からでも分かった。
部屋の右手にも小振りのテーブルが置かれて、やはり燭台が点っている。
他にはこれといった家具もない。
殺風景なほどの部屋だった。
後ろを振り返ると、三人が入ってきた扉の横にもテーブルがあり、燭台が置かれていた。
部屋の中はロウの燃える匂いが立ち込めていた。
『何か、他の匂いも混ざっているようだ。』
昔、館で薬師になるための勉強をしていた時に、様々な物を煮たり燃やしたりしたものだった。
『草木、皮、骨、角、干物、油、土や岩、石……。』
何か知っている匂いはないか、ラップは記憶を探った。

「お疲れのようで眠ってしまったから、声を掛けずに失礼したまでですよ。僕が君の懐から剣を取り出したなんて、言い掛かりも良いところだ。誰か見ていたのですか?」
魔法使いの声が少し大きくなった。
「店にいた客に、目撃者はありませんでした。」
ジーノは苦々しい顔で答える。
「おじさん!」
ジャックが非難する。
「警備隊が確認したんだよ。事実は伝えなくてはいけない。」
ジーノがジャックに説明する。
「君が思い込んでいる以外、何の証拠もない。そういうのはね、言い掛かりと言うんです。不愉快だ。帰ってもらいましょうか。」
魔法使いがジャックとジーノに言った。

「証拠があれば良いのですか。」
ラップは魔法使いに向かって尋ねた。
魔法使いが余裕たっぷりな顔でラップを見た。
「もちろん。どこにそんな物があるか知りませんが、ここに出してもらいましょう。」
勝ち誇った言い方だった。
ラップは両手を左右に開いた。
「かまいたち。」
小さな声でつぶやく。
指先から細い風の刃が、部屋の隅の燭台目掛けて走った。
続けて魔法使いの背中を掠めるように正面へ一撃、最後に振り返って、背後の扉の横の燭台を目掛けて一撃を放った。
ロウソクの明かりが次々と消えて、部屋が薄暗くなっていく。
「何をするっ!」
魔法使いは血相を変えてラップに詰め寄った。
ラップは飛び退って避けた。

「これはっ!」
ジーノが立ち上がった。
「な、何だこれ!?」
ジャックも叫んだ。
部屋の様子が一変していた。
ソファの周りの暗がりにうず高く積まれた本。
床に積み重なったおびただしい数の袋から覗いている、獣の骨や、薬草の束。
さっきまで整っていた机の上には、触れたらなだれ落ちそうな本や紙の山がいくつも積まれ、更に大きな釜が乗っていた。
ぐつぐつと煮え立っている釜からは、絶えず色の付いた蒸気が立ち昇っていた。
「ここに入ったときから、暗示を掛けられていたんです。」
ラップはジーノとジャックに言った。
「今、それを解きました。」
ラップは四隅に置かれた燭台を見た。
それぞれの燭台には数本の明かりが残るだけだった。

「何故だ、何故お前が知っている!」
魔法使いがラップに詰め寄った。
ラップはそれを無視して叫んだ。
「ジャック、机を見て! 銀の短剣を探して!」
「おう!」
ジャックの返事が聞こえた。
「動くな!」
魔法使いがくるりと向きを変え、ジャックの方に走った。
その前にジーノが立ちふさがった。
「おっと、部屋を偽装していた理由をお聞かせいただきましょうか。」
言っている言葉は丁寧だが、杖を構えて臨戦態勢だ。
「どけっ!」
魔法使いは手のひらに魔力を込め、ジーノに殴りかかった。
ジーノは杖で受け止める。
力がぶつかり合い、火花のように衝撃が飛んだ。

二人の後ろではジャックが机の上をあら捜ししていた。
紙の束を片っ端から床に落とし、剣がないか目を光らせる。
「ない、ない!」
紙を全部取り払っても、銀の短剣は見つからなかった。
机の下を覗き込み、引き出しを次々と開ける。
筆記具、紙、皮、魔法に使う石や宝石、山のようなメモ。
それらの中にも銀の短剣はなかった。
「見つからないよ!」
ジャックは声を上げた。
ラップは戦っている魔法使いとジーノを避けて、ジャックの側へ走りこんだ。
「うっ。」
机の上で蒸気を上げている釜から、鼻をつく臭いが漂ってきた。
ラップは口元を手で覆い、ジャックの側にしゃがみ込んだが、ハッと顔を上げた。
「ジャック、ちょっと後ろへ下がって。」
ジャックが机から離れるのを待って、ラップは自分の短剣を取り出した。
短剣を鞘のまま煮え立っている釜の上部に当て、力を込めて釜を押し倒した。
中の液体が勢い良く流れ出し、おびただしい蒸気が立ち昇った。
蒸気が薄くなると、空になった釜の中に銀の短剣の柄が覗いていた。
「あった!」
「おじさん、見つかった!」
ラップとジャックは同時に叫んだ。
「やったか。」
魔法使いと組み合っていたジーノが、顔だけをこちらへ向けた。
「貴様らっ!」
魔法使いが罵声を上げた。
どす黒い憎悪が膨れ上がって魔法使いを包むように見えた。
魔法使いはジーノの眼前に手を突き出して、まばゆい光の魔法を放った。
「ぐあっ。」
ジーノが顔を押さえた。
魔法使いがジーノを突き飛ばした。

自由になった魔法使いは、ラップとジャックに向かってきた。
「銀の短剣は渡さん!」
魔法使いの指先から、光る矢のような物が放たれた。
ラップは両手を前に揃えて結界を張り、攻撃をはじいた。
魔法使いが目を見張って、足を止めた。
その間にジャックは床に散っていた皮を拾い、まだ熱い壺の中から銀の短剣を掴みだして胸元に抱きしめた。
「村の宝なんだ! お前なんかに渡さない!」
ジャックが叫んだ。
「その剣は人に夢を見せるんだ。僕はその原理を知りたい。ほかの剣にも夢を見せる力を付けてやるんだ。よこせ。」
魔法使いはじりじりと近づいてくる。
「あなたは自分の欲望に取り付かれているんだ。」
ラップは言った。
「それに、鏡の見せるのは夢なんかじゃない。」
ラップの本心だった。明るい未来も将来の展望も見せてはくれなかった。
「未来でしょ? それだって夢だ。知りたがる人はたくさん居る。」
魔法使いの瞳が欲にぎらついているように見えた。
魔法使いの後ろでジーノがそろそろと立ち上がった。
音を立てないように杖を体の前に構え、ゆっくりと目を閉じた。
「同じような剣を作って儲けるつもりなんだな。そんな考えは間違っている。」
ラップは魔法使いに視線を移し、強い言葉で言い返した。
「小僧に何が分かる。偉いお師匠について、食いっぱぐれることも知らないで、一人前の口を利くな。」
魔法使いの声に恨みがこもる。
ラップは目を細めた。
この魔法使いも、ラップのように当てのない旅をしていたのかもしれない。
同情している場合ではなかったが、魔法使いの言葉には理解できる部分があった。
「それでも、魔法は、自分の欲望の為に使うものではないと思う。」
ラップはきっぱりと言って、右手を前に出した。
魔力を送り込むと、暗がりの中で掌がうっすらと光を帯びた。その光が徐々に強さを増していく。
ラップは自らの力の高まりに恐れを感じた。
警告で繰り出す魔法なら、こんなに多くの魔力は要らない。
もしこの力を放ったら、相手は軽い怪我ではすまないだろう。
テュエールの二の舞をしてはいけない。ただの挑発だと悟られてもいけない。
ラップは慎重に狙いをつけた。
「二度と巡礼者の邪魔をしないでください。」
押し殺した声でラップが告げると、掌の光が一層強い光を放った。
魔法使いが腰を落として防御の構えをした。
「拘束!」
後ろでジーノが叫ぶと同時に、光る鎖が背後から魔法使いの体に絡みついた。
「しまっ……」
魔法使いは振り返ることもままならず、床に転がった。
「アンデラ警備隊の名において、君を窃盗犯として連行する。」
ジーノは更に魔法使いの両腕両足に金属でできた細い拘束具をはめた。
魔法使いがもがいても、魔力を込めても、その金具は外れなかった。
ラップはホッとして掌に込めた魔法の力を収めた。

「ただいまーっ。」
ジャックの元気な声が宿屋に響く。
ラップは声を出す元気も残っていなかった。
銀の短剣を取り戻した二人は、魔法使いが連行されるのを見届け、やっと宿へ戻ってきたのだ。
安堵したせいか、それまで忘れていた体の不調が一層つらく感じられた。
「おお、おかえり。」
宿の主人が出迎えてくれた。
「取り返したよ、ほら!」
ジャックは嬉しそうに銀の短剣を主人に見せた。
「そうか、良かったな。」
主人の顔にも笑みが戻った。
「少し湯を沸かしてあるから、体を拭くと良いよ。」
厨房から店員が出てきて言った。
「やった、ありがとう。」
ジャックは笑顔で答え、それからふっとラップを見た。
「先に使えよ、ミッシェル。」
「え。」
「もうクタクタだろう。先にさっぱりして休めよ。」
ジャックの心遣いが有り難かった。
「そうするよ。」
ラップは顔をほころばせた。

 

(2013/7/4)

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